「麻井宇介のワイン余話」 余話。その1 ワインづくりが技術を獲得するまで 〜パスツール以降〜①&②

余話。その1 ワインづくりが技術を獲得するまで 〜パスツール以降〜①

私たち日本人は、ワインを酒の一種と考えます。エチルアルコールを含んでいて、飲めば酔っぱらう液体。酒というものの属性をこう捉えてしまうと、ワインはまさしく酒であります。ワインもビ-ルも清酒も、本質は同じではないか。これはアルコール中心主義、いうなれば「唯酒精論」ですね。こういう考え方に一度染まってしまうと、それぞれの酒に、独自の技術の「在りよう」があって、それらは決して同質化しない、ということが理解できなくなってしまう。ビールとワインの醸造における技術的な進歩を比べ、ビールが先行し、ワインがその後を追い、あたかも同じレールの上を走っていて、ビールが文明化していったように、やがてワインも文明の酒となっていく、と考えやすいんですね。そんなに単純に割り切れるもんじゃないんです。なぜ割り切れないのか。多分、この二つは酒という同じレールの上を走っているのではない。つまり文化として異質なんですね。

 

 

「麻井宇介のワイン余話」 余話。その1 ワインづくりが技術を獲得するまで 〜パスツール以降〜②

海外旅行でオーストリアのウィーンへ行かれた方は、きっと名物のホイリガーを飲みにグリンツィングへ立寄られたのではと思います。晩秋の頃ですと、まだ発酵が完全に終っていない炭酸ガスをピチピチ感じる濁りワインを目当てに、観光客が大にぎわいしています。ところが、ウィーンのワイン好きの人達が出かけるのは、ブドウ畑のそばにあるホイリゲ(ブドウ農家の納屋。そこで醸造した新酒を飲ませてくれる)なんです。

或る時、そういう場所へ案内してもらいました。ポツンと一軒あるんじゃないんです。道路に沿ってずらりと並んでいる。私がいったのはドナウ川の岸辺に沿う平地から河岸段丘へ上っていく坂道の切り通しになったところ、そこに集落のようにしてあるんです。まるで村のメインストリートのように家が軒をつらねている。ところが近くまで行くと何か変な感じになります。全体がミニチュアのように小さい。それでいて道幅はそこだけむしろ広くなっている。それには理由があるんですが、ガリバーが小人国へまぎれこんだような気分になりました。ケラー・ガッセというんです。

折しも収穫の最後の時期で、段丘一帯のブドウ畑から、小型のトラクターが荷車を牽いてやってくる。それぞれが自分の小さな家の前で荷をおろすわけです。それがどういうやり方かというと、まず家の中から小型の破砕機と圧搾機を路上へ引っぱり出します。そして、積んできたブドウの仕込みがそこで始まるのです。グリュンナー・フェルトリーナーという白ワイン用のブドウで、彼等はその果汁だけを家の中へ収納するため、屋外で、私達の目から見ればワイン醸造の最初の工程を行っている。露天で酒つくりをするなんて日本では考えられないことです。

しかし、それはカリフォルニアでも、チリやアルゼンチンでも見たことがあって、雨の少ないところではこれでいいんだと納得していたんです。1年にごく限られた僅かな日数しか稼動しない、そんな場所に屋根をかける必要はないわけですから。どこも1日1000tは楽に処理できるような、日本では見られない大きくて立派なワイナリーでした。

それで、その時は見えなかった肝心のところが、ケラー・ガッセの路上で、農家が自分のブドウ畑から収穫してきたブドウを夫婦で搾っているのを見て、突然、目から鱗が落ちたんです。子供の頃に、農家の庭先で稲扱(いねこき)機がまわり、唐箕(とうみ)で籾(もみ)を篩(ふる)い、俵に詰めて納屋に入れる作業を身近に見ていましたから、はっと気がついて、ああこれはワインの仕込風景ではなく、ブドウの収納作業なんだ!と悟ったわけです。実際、その小さな家の中には立桶が並んでいて、ブドウは果汁だけが納められ、そうすると自然に発酵がおこって、ワインになってしまうんですね。冬を越して上澄みがキラキラ輝くほどになる頃、仲買人がきて、桶の1本1本を味見して値付けをし、買い集めていく。ホイリゲは、その束の間の新酒をじかに味わわせてくれるブドウ農家の小さな収蔵倉のことをいうんです。私はこの農作業のための納屋というべき建物の中で、濁りワインを汲み交わし、ワインの本質へ一歩近づけたような気分になったものでした。

余話の余話」もご参考に(この前後の余話のリンク先も記しています)

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