「麻井宇介のワイン余話」 余話。その3 伝統産地VS新興産地 〜テロワールは産地の名声を支えられるか〜④⑤⑥

余話。その3

伝統産地VS新興産地 〜テロワールは産地の名声を支えられるか〜④

ここで、前回もちょっと触れてはいますが、新世界のVitis viniferaの伝播について概観します。

まず一般論としていえることは、産地形成が或る段階に達するまでは、どこの産地でもブドウ品種の導入は幾度となく行われます。それらの事蹟が正確に記録されて残るのは稀ですが、それは今日でも間断なく続いていることで、AOCなどの法的規制がその産地に植栽できる品種を限定しない限り止むことはありませ ん。

こうした重層的なブドウ品種のdiffusionを前回は文明化という視点からとらえてお話しました。

余談になりますが、その具体的な事例をひとつだけ述べておきます。

1932年7月 1984年7月 1996年8月
サンジョヴェーゼ 70~80% 75~90% 75~100%
カナイオロ・ネーロ 10~30% 5~10% 10%以下
トレッビアーノ・トスカーノ 10~30% 2~5% 6%以下
マルヴァジア・デル・キアンティ 10~30% 2~5% 6%以下

 

これはキアンティ・クラッシコのアッサンブラージュを規定した法律がどう改正されていったか示したものです。

ここに示された数値を見る限りキアンティ・クラッシコの特性は、近年サンジョヴェーゼの個性そのものへ重ね合わされていくかのように思われます。軽く口当たりの柔らかな若飲みタイプから、重厚で熟成した深い味わいを期待する酒質へ、キアンティ・クラッシコの変貌は明らかです。これはサンジョヴェーゼという品種に、カベルネ・ソーヴィニヨンやメルローのごときポテンシャルを認め、トスカーナの地酒を文明化の路線へ乗せたことにほかなりません。

ここまでは銘醸地のブドウが特定の品種へ収斂していく普遍的な現象で、品種の拡散は重層的であるという話とは関係がありません。問題はこの割合を定めたあとに続く補足の規定にあるのです。1984年の場合は次のようになっています。

「産地推奨または認可の補助的な赤ブドウ品種:10%以下」

こうした特例規定は、往々、その産地に栽培されている過去の植栽品種の収穫を救済するための経過措置である場合が多いのです。例えば、ボルドーACの白ワインの規定には、許可された品種、セミヨン、ソーヴイニヨン・ブラン、ミュスカデルのほかに、補助品種としてユニ・ブラン、コロンバール、メルロー・ブラン、オンデンなどを総量の30%まで使うことが認められています。これはAOCが制定された当時、これらの品種が淘汰されずにかなり残っていたからで す。

しかし、キアンティの場合はいささか事情が違うように思われます。なぜなら、1996年の改正ではこの特例の混和割合が10%から15%に引き上げられたのです。100年以上前、リカソーリ男爵が造り上げたといわれる4品種混合のキアンティの性格がサンジョヴェーゼ100%へ変わりつつあるなかで、新しく割り込んでくるものがあるからこそ、それを容認して法律を改めたとしか考えられません。明らかにこの時期、幾度めかのdiffusionがあったのです。

 

 

余話。その3

伝統産地VS新興産地 〜テロワールは産地の名声を支えられるか〜⑤

話を本題へ戻します。

今日、新興産地といわれる地域でVitis viniferaの栽培が定着するまでには、伝統産地が形成された経過と同じく、幾度もdiffusionが繰り返されます。ただし、それは文明の力をバックに、かなり組織的であったところが旧世界の場合と違っていました。

大航海時代の航路開拓は西へ向かうものと、アフリカ大陸を南下して東へ進んだものがありましたが、ブドウ品種のdiffusionもまたこの二つの経路に乗って、南北アメリカに展開したものと、南アフリカからオーストラリアへ向かったものとがありました。

コロンブスがサン・サルバドル島に到達したのは1492年、ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を回ってインドのカリカットへ到達したのは1498年。ほぼ同じ頃ですが、インド航路を開拓してアラブ人、インド人の独占していた香辛料貿易に参入したポルトガルに対して、アメリカ大陸に進出したスペインは、原住民の征服とカトリックの布教が一体となって、たちまち領土を広げていきました。ブドウの移植は伝道活動に随伴するものでした。

15世紀の終わりから始まったスペイン人のアメリカ大陸進出は1513年、パナマ地峡を横断してたちまち太平洋岸に達しました。このあたりはマヤ文明の栄えたところです。当時はアステカ帝国がありました。エルナンド・コルテスに率いられたコンキスタドーレスがこれを制圧して、現在のメキシコから中米一帯をスペインの支配下におさめたのは1521年だそうですが、実はこれから後、南下していく勢力のスピードが驚く程速いのです。

これは軍隊だけではありません。コロニストもミッションも一団となって動きました。それがそのままVitis viniferaのdiffusionだったのです。1530年代にはペルーに達し、さらにチリからアンデスを越えて、その東麓にブドウが植えられたのは 1556年といわれています。新大陸発見から現在世界屈指の大産地メンドーサが誕生する発端まで、人間はわずか60年ほどの間に、赤道を越え、アンデス山脈の雪をわけて、ヨーロッパのブドウを異風土の各地へ植え付けていきました。当然、新しい土地に適応できる品種と脱落していく品種があったはずです。もしかすると、その淘汰は意外に速く進んだのかもしれません。

なぜなら、ミッションが移動したルート上に「ミッション」と呼ばれる品種以外、痕跡はなにも残っていないからです。繁殖力が旺盛で病気に強く、しかも豊産のこのブドウは、ワイン文化圏から新世界へ入植した最初期の人達にとって、まことに心強い品種であったに違いありません。このブドウは南アメリカの固有種のように勢力を張り、1980年の統計では品種別栽培面積145,000haで世界第6位につけていました。

その後の急落については既に述べましたが、それ以前、このブドウがいかにチリ、アルゼンチンの風土で土着化していたか、思い知らされる数字であります。

 

 

余話。その3

伝統産地VS新興産地 〜テロワールは産地の名声を支えられるか〜⑥

ヨーロッパのワインは、これまで二つに大別されていました。商標名で呼ぶワインと、産地名を名乗るワインです。どちらの場合も、飲み手にはそれがどんなワインかおおよその推察はつきます。商標ワインは、ブレンドによっていつも同じ味わいとなるよう規格に従って調整されたワインです。

産地をうたうワインの場合、それによって飲み手がどんな酒質かほぼ推察できるというのは仕掛けがあるからです。いや仕掛けではありません。産地はVitis viniferaの拡散によって生まれ、その特徴は品種の収斂によって形成されるという経験則が、どこの産地にもあてはまるからです。

知識を持った人ならば、例えば「グラーヴの赤」とか「マコンの白」と聞いただけで、カベルネとメルローに収斂したグラーヴの畑、シャルドネに収斂したマコンの畑が浮かんでくるはずです。産地名がブドウ品種の代名詞になっているから、どんなワインか想像がつくのです。

ところで、はやばやとミッションに収斂してしまった新大陸の場合、カリフォルニア、チリ、アルゼンチンなどのワインのイメージは決してこの土着化したブドウの上に結ばれるものではありません。

新大陸の産地では、ブドウ文化の基層を形成したミッション(チリではこれをパイスと呼び、アルゼンチンではクリオーリャまたはクリオージャといいます)の上に、新たな拡散、現地の側からいえば品種の再導入が行われ、それらが定植された地域において収斂はまだ始まっていないのです。

このことが、ラベル表示において、伝統産地が産地名を、新興産地が品種名を優先させる理由です。産地と品種がほぼ対応している旧世界と、産地の個性を主張できず、品種の特性を訴求せざるをえない新世界とは、ただ拡散から収斂に至るステージの進み具合が違うのだと考えればよいことです。

余談になりますが、大西洋側から西進したミッションが太平洋岸に達したあと、迅速に南下したにもかかわらず、北上するのは200年以上もあとになります。サンディエゴに伝道所がつくられるのは1769年、それから点々と伝道の拠点を北に進め、最後の21か所目がサンフランシスコに建設されるのは 1823年です。

伝道師達はなぜ赤道をこえて南下しながら北上しようとはしなかったのか。私にはこの謎が解けませんでした。或る時、この疑問を国立民族学博物棺の館長だった梅棹忠夫先生との対談で話題にしました。あっという間の解決でした。

「それは当然やないか。宗教は文明に向かって進む。南には異教徒がいるけど北は未開や」

確かにスペイン人達はアステカ帝国を滅ぼしインカ帝国を征服しました。

そして、その時以来、南米のワイン文化の基層であるクリオージャが、むき出しのままつい最近までチリ、アルゼンチン両国のワイン産業を支える主原料であり続けていたのです。アメリカにおけるミッションが19世紀後半、急速に淘汰されていったのとあまりにも大きな違いです。それはなぜだったのか。南米の国々は市場が閉鎖的で、大多数の飲み手は好みが洗練される機会などなかったからだと思います。クリオージャのワインは、いつもの飲みなれた「郷土の味覚」であり続けることによって土着の文化となりおおせたのです。

ワイン余話 その1、その2はこちらからご覧いただけます

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