「麻井宇介のワイン余話」 余話。その3 伝統産地VS新興産地 〜テロワールは産地の名声を支えられるか〜⑭⑮

余話。その3

伝統産地VS新興産地 〜テロワールは産地の名声を支えられるか〜⑭

「人為」が「自然の持ち味」を失わせると確信する人達が具体的に強く意志表示している事柄に有機農法の推進があります。

ブドウ栽培が、病害・虫害駆除、生育促進、収量確保、省力化といった農業経営上の課題について個別に合目的に技術の進歩を実現していった結果、除草剤の撒布、防除薬剤の多用、化学肥料依存といった事態となって、ブドウ畑の生態系も土壌の性質も変わってしまいました。

有機農法はその反省の上に立っています。しかし、「だから人間の関与は排除すべきだ」というのは論理的におかしいですね。有機農法も人間の関与なしには実施できないのですから。

最も人間のやることにはもっと極端なことがあります。カリフォルニアのGallo社が、ジェネリックからヴァラエタルへ商品コンセプトの大転換をはかったとき、ソノマに新しく開設したブドウ畑で底土からそっくり入れかえ、石灰岩質の理想的な土壌としたことは有名な話です。

ここで注意しなければならないのは、なにをもって理想的というのか、その肝心な点が石灰岩質という言葉ですりかえられてしまっていることです。しかも「テロワール」の主体であるべき「ソノマ」という固有の所在は消されてしまう。それでもソノマ産のワインであると主張できるのでしょうか。

フランスではこうした「テロワール」の本質にかかわる改修は許されません。しかし、ラフィットやラグランジュなど有名なシャトーの畑に暗渠排水の設備があることは容認されています。

その一方、潅漑をしている畑に「テロワール」の存在は認め難いと主張する人達もいます。これはカリフォルニアを意識しての発言でありましょう。しかし新世界のつくり手達は、良いワインがつくられているかどうかがすべてであって、そこに「テロワール」が存在するかどうかはどうでもよいことだと反論するんじゃないでしょうか。

同時に思うのは、伝統産地のつくり手達がなぜこれほどまでに「テロワール」にこだわりだしたかということです。シャルドネやカベルネ・ソーヴィニヨンの拡散によって、すっかり文明化してしまった新興産地のワインに対して、伝統産地のワインはなにをもってアイデンティティを主張するのか、その動揺のあらわれとしか見えません。

 

 

余話。その3

伝統産地VS新興産地 〜テロワールは産地の名声を支えられるか〜⑮

ノーブル・グレープの拡散と栽培・醸造技術の革新は、伝統産地の存在感を徐々にではありますが軽いものにしていくでしょう。それを一番敏感に感じているのは、当の産地のつくり手達のはずです。

このような時期に、Gallo社がフランスの伝統産地の「テロワール」を追求して、本気で疑似風土をつくったとはどうしても思えません。Gallo社の技術をもってすれば、カリフォルニアの自然条件のもとで、フランスの銘醸ワインに匹敵するものを醸造することは確実に可能です。

では何が目的で「テロワール」に「人為」を加えたのでしょうか。さらに一段上のワインを目指す壮大な実験であるかも知れません。もしそうであるなら、それはワインの風土性を自己否定することになりかねません。おそらく、そのような無謀な企てではなく、ヴァラエタル・ワイン市場で出遅れたGallo社がアメリカのわけ知り顔の飲み手達に、本物のハーガンディに限りなく近い高級ワインをつくる姿勢をわかりやすく見せたのでしょう。ジャグ・ワインのGallo からハイクオリティ・ワインのつくり手へ、イメージ・チェンジの思い切った投資であったと思われるのです。

フランスの銘醸畑の「テロワール」に寄せる信仰心は、ワイン文化の後進国の特にスノビッシュな人達の心に深く宿っています。だからこそGallo社のマーケティング戦略は的を射抜くでありましょう。

しかし、本気で考えるなら、ワインづくりが文明化してしまったために、神に祝福された「テロワール」があって銘醸ワインが生まれるのではなく、人間が偉大なワインをつくり、それを「テロワール」の恩寵とする時代になってしまったように感じられます。

「その4」へ続く

ワイン余話 その1、その2はこちらからご覧いただけます。

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