「麻井宇介のワイン余話」 余話。その4(最終章) 日本のワインづくり 〜変遷と未来像〜 ⑦⑧⑨

余話。その4

日本のワインづくり 〜変遷と未来像〜⑦

川上善兵衛はこの時すでに育種へ転進して10年がたっています。彼が栽培試験をしたヨーロッパ系品種には、ヨハネスベルヒ・リースリング、 セミヨン、ソーヴィニヨン・ブラン、ピノー・ブランなどの白品種、ピノ・ノアール、ガメ、グルナッシュ、メルロー、マルベック、カルムネ・ド・メドック、ジンファンデルなどの赤品種、それにピノ・グリ、マスカット・オブ・アレキサンドリア、ブラック・ハンブルグなどの名前が残されていますが、評価となるとラブルスカ系のブドウの方が高いんです。

彼は高品質のワインを追求する前に、栽培しやすく収量もある程度は多いことを前提条件として選別していったんだと思います。メルローについては「樹性健康にして成長良好なり」「上等なる赤酒の醸造に用ふべし」と記述しながら、一方で「収穫多からず此種に限らず上等種類は欧米の別なく共に豊産なるものなし是れ美酒の値常に不廉なる原因か」(『葡萄提要』524頁)と書いて、将来性のあるブドウとはしていません。

こうして、川上善兵衛の仕事にちょっと立ち入っただけで、500品種をすべて否定したのは、それらの品種が日本で栽培するのに非常な困難が伴うというのではなく、川上善兵衛の構想するブドウ農業の、それも高士村という一地方での風土適性や経済性と、一見科学的と錯覚する川上善兵衛の強烈な個性から下される判断、それらのないまぜになったものだったことがわかってきます。

では、「日本の気候や土壌ではヨーロッパの良質のブドウはうまく育たないから、湿潤な風土でも強健なラブルスカ系ブドウにヴィニフェラを交配して品種改良するしかない」、という言説はどこから生まれたのでしょう。日本の赤ワインが、その酒質を向上させていく方法論はこれしかないのだと結論的に説明され、それを具現化したのが「マスカット・ベーリーA」だと私は教えられたのです。しかし、これを川上善兵衛が語るはずは決してありません。

彼が交配によって穫得しようとした特性は、ワインに与えるポテンシャルではなく、ブドウそれ自体の強健さと豊産性だったのですから。「マスカット・ベーリーA」はまさにそのねらい通りのブドウとして、一時期、脚光を浴びたのです。そして、日本のワイン醸造家達には、ボルドーやブルゴーニュの品種をそのまま栽培するのは無謀だと、断念させてしまうなにがしかの作用を及ぼし続けたように思われるのです。

 

 

余話。その4

日本のワインづくり 〜変遷と未来像〜⑧

そこで「日本ではヨーロッパ系ブドウ品種は育たない」という風説の元凶探しをしなければなりません。

目星はおおよそついていました。この言説を強く主張する人たち、いわば確信犯の系譜をたどっていけば必ずわかるはずだと思ったのです。そこでひらめきました。日本の果樹農業、園芸学の開祖へさかのぼって、そこから文献を渉猟しつつ時代をおりてくれば、もっと早くこの理由の定かでない学説を開陳した人物に出合えるのではないかと。

それで、その通りにやったんです。ですが、その講をする前に、日本の果樹農業についてちょっと触れておきます。明治以前、日本人は柿、いちぢく、枇杷、梅などを庭先に植えて果実を食べたり加工したりしてはいましたが、それを生業とするような発想は、まずありませんでした。甲斐の名産・甲州葡萄にしても、現在のようにブドウ専業農家があったわけではありません。栽培面積もごく僅かなものだったんですね。要するに、果樹農業というものは存在しなかった。換金作物でありえたのは、例外といったほうがいいんです。

ところが、明治維新で一転します。果樹・牧畜という新しい農業の推進が国家の一大政策となる。これを「泰西農業」と呼んで、たいへんな期待がかかりまし た。三田育種場、播州葡萄園、神戸阿利襪(オリーブ)園、下総種畜場、嶺岡牧場、三田農具製作所といった国営の施設が続々つくられたのを見ても、その意気込みが強く感じられます。

それで人材の確保はどうなのかといいますと、選ばれた人たちは猛烈に勉強しますが、後手にまわった感は否めません。ワイン醸造のために導入した欧米のブドウの栽培に着手しようとした明治10年前後、その栽培法を実地に学んだ人はほとんど皆無だったんです。修得した知識がどのようなものであったにせよ、現場を体験したという履歴のある人を数えてみますと、まず小沢善平、次が桂二郎、この人は『葡萄栽培新書』という本を明治15年に出版しています。そして、勝沼の大日本山梨葡萄酒会社から派遣された高野正誠と上屋龍憲、これくらいでしょう。

ウィーンで農学者ホーイブレンに師事した津田仙のブドウについての体験はあやしいものです。山梨県が県営葡萄酒醸造場に招聘したアメリカ帰りの大藤松五郎も、どれだけ知っていたのかわかりません。

こんな状況で官営播州葡萄園は発足します。園長になるのは津田仙の学農社農学校で学んだ福羽逸人です。播州葡萄園は明治13年に開設され、ようやく園地の整備ができて、これから醸造が本格化するという明治18年、フィロキセラに襲われます。

この大惨事の最中、明治19年に彼は「官命を奉じて留学」するのです。日本の園芸学はここが起点です。

 

 

余話。その4

日本のワインづくり 〜変遷と未来像〜⑨

話が長くなりました。先を急ぎます。

福羽逸人はフランスのヴェルサイユ園芸学校で学び明治22年カリフォルニアのブドウ産地を巡回調査した後、帰朝します。その時、播州葡萄園はすでにありません。殖産興業の流れが変わり、国はワインを見限ったのです。福羽の留学の成果は、明治29年、『果樹栽培全書』となって世に出ます。この頃、彼は宮内省御料局に技師として勤務するかたわら、農科大学(東大農学部の前身)で園芸学を講じていました。

彼の得意とするところは温室栽培で、岡山のマスカット・オブ・アレキサンドリアはその恩恵を受けています。福羽はなぜ温室栽培に眼を向けたのか。それは播州葡萄園の頃、すでに芽生えていたんです。『果樹栽培全書』には、「欧州原産ノ善良ナル醸酒葡萄ノ栽培」に日本の土質は適当であるけれども気候は適していない、と書いています。梅雨と秋雨、そして暴風によって良いブドウがつくれないというのがその理由です。しかし、弘前市の藤田葡萄園では成功していると指摘し、広く各地で試験すれば意外に良い結果が得られるかもしれない、そう言って、この本ではまだ強く否定はしていません。それでも福羽自身は留学前から播州葡萄園に「硝子蓋室」をつくり「室内栽培」の実験をしているんです。

こういう伏線があって、福羽逸人の次の著作『果樹蔬菜高等栽培論』(明治41年)になると「予ノ信ズル所ヲ以テスレバ本邦ノ風土ハ些少ノ除外ハアルベキモ概シテ葡萄栽培ニ適応セザルガ故ニ良質美味ノ葡萄ヲ修得セント欲セバ勢ヒ高等栽培ニ由ラザルベカラズ」とかなり断定的な言い方をするようになります。高等栽培というのは硝子室内で栽培することなんです。

この本が出版された同じ年、川上善兵衛の『葡萄提要』もまた上梓されました。川上の場合は、ここに至る経過を『葡萄種類説明』と『葡萄栽培提要』という二冊の本ですでに世に示していますから、福羽は川上の仕事の概略は承知しているんですね。それで痛烈に批判します。当時、こういう意見が公にされていたというのは面白いですね。そのくだりを読んでみます。

「近年越後国ニ於テ盛ニ葡萄栽培ニ従事セル川上善兵衛氏ガ事業ニ熱心ニシテ而モ多少ノ技量アルハ敬服ノ外ナシト雖モ大体ノ目的ニ向テハ首肯スルヲ得ザルモノアリ蓋(けだ)シ氏ハ生食醸用共ニ不適良ナル米国葡萄ノ劣種ヲ栽培シテ西(スペイン)、仏(フランス)、伊(イタリア)又ハ米国加州産ノ葡萄酒卜競争シ得ベキモノト認定セルガ如シ果シテ然ラバ是レ真ニ誤見ナリト謂ハザルベカラズ何トナレバ斯ノ如キ劣等ノ葡萄ヲ以テ醇酒ヲ醸造シ得ベキノ理ナケレバナリ」(『果樹蔬菜高等栽培論』107頁)

福羽の発言は正しいのですが、この声は消え、「マスカット・ベーリーA」は残りました。現実の農業は、批判だけでは変えられないのです。

ワイン余話 その1、その2、その3は、こちらからご覧いただけます。

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