EUワイン関税撤廃で注目集めるD.O.バルデペーニャスとは

かってハバロン川が流れ、22,000haのブドウ畑には樹齢100 年を超える樹もあり、約2,600 軒の栽培家がブドウを育てている。

 

D.O. バルデペーニャスの誕生は1932 年だが、この地域におけるワイン生産は紀元前5 世紀まで遡る。地理的に見ると現在のD.O. 域内にイベリア遺跡セロ・デ・ラス・カベサスがあったことが証明されている。この地域の歴史は、ワインと同様、常にスペインの歴史と深いつながりがあった。

 

バルデペーニャスワインには、紀元前数世紀まで遡る歴史があり、他の産地とは異なる特徴がある。セロ・デ・ラス・カベサス遺跡は、現在の町の7 km 南にあったと考えられている。つまり紀元前800 年には既にバルデペーニャスにブドウ樹が存在し、ワインが造られていたことが分かっている。地中海沿岸からイベリア半島へブドウ樹が入ってきたのだろう。

 

この地域にローマ時代の文化が存在していたことを証明できるもう一つは、ローマ商人の守護神・メルクリウスを崇拝する碑文がアルハンブラ(市の一部がD.O. バルデペーニャス)で発見されていること。さらに、トレドからコルドバまでのローマ街道がシウダ・レアル県を通っていたこと、ハバロン川を渡る代替ルートの存在など、この地域は新興貿易地として機能していたことが想像できる。

 

ローマ人がワインとブドウ栽培を愛していたこと、そして数々のローマ街道の存在、アシニポの名前の刻まれた石碑、ブドウの房の描かれた紋章、商業の神への崇拝などを考慮すると、バルデペーニャスはカスティーリャ・ラ・マンチャ州におけるブドウとワイン文化の発祥地であると言える。

 

バルデペーニャス地域のレコンキスタは、11 世紀から13 世紀にかけて起こり、ナバス・デ・トロサの戦いでアルフォンソ8 世が勝利した1212 年に回復した。この年を機に現在のバルデペーニャスが形成され始めた。ワインとブドウに関する記述が存在するのもこの年からである。

 

1243 年、ベレンゲラ女王がいくつもの集落をまとめてバルデペーニャスと名づけた。バルデペーニャスとは「岩の谷」を意味するValle de Peñas が語源だと考えられている。13 世紀以降、バルデペーニャスに関する引用句や引喩が数多く存在し、その中にはブドウ畑に関する記述もある。当時の凍害、干ばつ、降雹などによる農作物へのダメージが記されている。また13 世紀以降、畑作は徐々に穀物栽培からブドウ栽培へと移行したため、バルデペーニャスにはラ・マンチャ地方を象徴する風車のある風景がない。

 

ブドウ栽培は、耕起、剪定など多大な労力と長期にわたる耕作が必要となる。収穫にも費用がかかり、ワイン造りには一定の知識が必要となる。16 世紀になるとバルデペーニャスのブドウ栽培とワイン醸造の活動が活発化していく。オーストリアの宮廷ではバルデペーニャスワインがすでに知られており、フェリペ2世が首都をマドリッドに移した1561 年には、マドリッドでバルデペーニャスワインが販売された。

1594 年の三位一体修道会の記述には、バルデペーニャスワインに崇拝の念を表したと記されている。

 

18 世紀、カルロス3 世はワイン売上税でマドリッドの都市化を成し遂げた。バルデペーニャスワインもマドリッドの街づくりに大いに貢献し、アルカラ門とトレド門建造はバルデペーニャスワインの売上税で賄われたと言われている。

 

19 世紀はバルデペーニャスの全盛期といえる。19 世紀半ばにブドウ樹と他の作物の混合畑が完全にブドウ樹の単一栽培畑に変貌を遂げ、経済のバックボーンになった。さらに同時期、フランスのブドウ畑がフィロキセラの被害を受け、不足したワインの埋め合わせにバルデペーニャスワインが大きく寄与した。こうした大きな需要によってワイン造りは産業化した。19 世紀シウダ・レアルの先進産業はワイン産業だった。

 

19 世紀のフィナーレは、1861 年の鉄道の登場だった。バルデペーニャスからマドリッドまで直行するワイン列車が登場した。この列車は25 輛編成で、1輛に2 つの可動式棚が備えられ、そこにワインの入った皮袋が満載された。マドリッド行きだけでなくアリカンテやバレンシアの港まで輸送する鉄道も開通し、港湾で鉄道から船に変え、東南アジアのフィリピンや、キューバなど中米カリブ全域に輸出していた。この貿易の始まりで鉄道駅や路線近郊にはワイナリーが建てられた。中には当時から現在まで同じ場所で稼働しているワイナリーも存在する。

 

20 世紀は前代未聞の大打撃の世紀だった。バルデペーニャスも社会的動乱に巻き込まれ、ブドウ畑はフィロキセラの被害を受けた。フィロキセラは1900 年にバルデペーニャスに襲来した。その侵攻はフランスより30 年も遅かった。それはメセタ(高原台地)の夏の暑さが尋常ではないことの証明でもある。すぐにアメリカ産台木に接木をする作業が進められた。接木による新たな作付けで繁栄を取り戻し、マドリッドのタベルナ(居酒屋)の定番になった。

 

フィロキセラ禍は、ブドウ畑に科学的技術的な行動力を生み出した。当局はバルデペーニャスに初のワイン醸造局と実験施設を設置した。さらに1925 年には、ブドウ栽培者地域連盟(フェデラシオン・レヒオナル・デ・ビティクルトレス)が創設され、1928 年にはブドウ栽培・ワイン醸造者協会(シルクロ・メルカンティル・ビティビニコラ)が創設された。そして、1930 年5 月1 日、ブドウ栽培・ワイン醸造者協会はその拠点をバルデペーニャスに定めた。現在のバルデペーニャスワイン委員会はその後に設置され、1932 年ワイン規定にはD.O. バルデペーニャスが記載された。

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