レポート 岩の原葡萄園 川上善兵衛 生誕150年 善兵衛品種に特化する岩の原葡萄園から白品種の新たな息吹

今年は早く春が来た。岩の原葡萄園でも、2月末から3月上旬に樹木の流動が確認され、マスカット・ベーリーAの萌芽は4月7日に始まった。訪問した4月13日は、日本三大夜桜のひとつに数えられる「高田城百万人観桜会」の真っ只中で、例年であれば満開の桜が咲き誇っているはずだったが、約4,000本の桜は目にも鮮やかな青葉をまとっていた。その代わりというわけではないが、岩の原葡萄園には前日吉報が届いていた。フランスで2007年から開催されているプロの女性審査員だけによるワイン品評会「コンクール・ド・フェミナリーゼ」で白ワインの「レッド・ミルレンニューム 辛口 2016」が金賞を獲得した。「日本ワインコンクール」などで受賞歴が多い「ヘリテージ」「マスカット・ベーリーA」「ブラック・クイーン」など赤ワインの印象が強い岩の原葡萄園だが、新たに白ワインでもその歴史を作り始めた。

 

<川上善兵衛生誕150年>

今年は「日本のワインぶどうの父」と呼ばれる川上善兵衛が、1868年にこの世に生を受けてからちょうど150年にあたる。その生涯を地元農家の暮らしとブドウ栽培のために尽くし、1944年に享年76歳で亡くなるその前年までブドウの交配をし続けた人物だ。しかし、最初から交配に着手したわけではなかった。ワイン用ブドウに関わる前半の30年は欧米品種に取り組み、後半の20年に交配を繰り返し試みたのだった。

そもそも善兵衛がブドウ栽培を始めたのは、地元の農家の暮らしを助けたいと考えたからだった。2015年に開業した北陸新幹線が停まる妙高高田駅から岩の原葡萄園までの道のりで目に入るのは、頚城(くびき)平野に広がる水田だ。今でも全国有数の米どころとして知られている。

ところが、ここは豪雪地帯であるだけでなく洪水にも悩まされ「三年一作」と言われていた。何か手立てはないかと考え、明治15年に若干14歳の善兵衛は川上家と親交のあった勝海舟を訪ね相談した。足繁く通ううちに、勝から飲ませてもらったワインにたいそう感銘したようだ。そして、稲作ができない土地でも育つブドウを育てワインを造ること、それが農民救済になると信じワイン用ブドウ栽培に特化すると決めた。1890年・明治23年、善兵衛22歳の時のことだった。

川上善兵衛記念館は1階がショップで2階は展示室

<気候風土に合う品種を求めて>

その後、欧米から取り寄せた苗木の種類は350とも500ともいわれている。大正11年までの30年間、欧米からこれら多数の品種を植栽し苦悩の日々を送っていた。

なぜ、ダメなのか。昭和15年に発表した論文「交配に依る葡萄品種の育成」の冒頭にこのような内容を記している。欧州系の質のよい品種の多くは日本の風土に適するものが少なく、米国系は日本の風土に適するものが多いが上質なワインの原料には適さない、と。

上越の気候条件を甲府とボルドーと比較して、岩の原葡萄園の前社長・棚橋博史氏が説明した。30年平均(1980〜2010年)の気温13.6度はそれほど変わりがない。生長期の日照量も若干少ない程度だ。しかし、降雨量については冬の豪雪を除いて生育期だけみても、甲府の1.3倍、ボルドーの2倍以上もある。

善兵衛が植栽した三墓山(みはかやま)の北側斜面は、田んぼにもできない岩だらけの水はけがよい土地だった。直径10cm程度の安山岩や5cm以下の礫岩がゴロゴロしている。しかしそれでも、多量の雨が降るとブドウは水を吸いせっかく育った果粒がはじけてしまうことが多い。はじければ腐敗が始まる。健全なブドウが手に入らなければ上質なワインできるわけがない。

上越の気候風土に合った堅牢な身体を備え、しかも醸して美味しい果実を実らせるブドウが手にはいれば……。その一心で、1922年・大正11年から交配を始めることにした。この時、善兵衛はすでに53歳になっていた。

10,311回。善兵衛が品種交配を行った回数だ。木島章著「川上善兵衛伝」によれば、この中で結実したものが約1,100株あるが、これらを交配・育成して優良品種かどうかを見極めるまでにはそれぞれ13〜15年かかる。交配、採種、播種、その3、4年後に結実し、交配してから5、6年目にできた果実を調査して第一次選抜を行う。選抜した新品種の苗木を育て、翌年試験栽培を開始する。それから3、4年目にようやく試験醸造ができるが、果実はその年の気候を大きく反映するので判断するには少なくとも3年分の結果を観る必要がある。

こうして、理想のブドウを求めて膨大な時間を費やした。そして同時に財産も費やした。善兵衛が生まれた川上家は、北方村の大地主であった。しかし、学究肌で人情派の善兵衛は、そろばん勘定は得意ではなかったようだ。そこに助け舟を出したのは、寿屋(現サントリーホールディングス)創業者の鳥井信治郎だった。二人を引き合わせたのは、川上家と親戚筋にあたる東京大学の坂口謹一郎博士だ。

善兵衛の研究魂に心から敬意を抱いた鳥井信治郎の計らいで、すべての借金が肩代わりされた上に表向きは共同出資という形で1934年・昭和9年に「寿葡萄園」が設立され、その2年後に「岩の原葡萄園」と改名された。これで研究に邁進できるようになったのだ。マスカット・ベーリーAが交配されたのが1927年・昭和2年、初めて結実したのが1931年・昭和6年で、先ほどの計算でいくとこの品種の性質に確信が持てたのは早くても1940年・昭和15年となる。ちょうどくだんの論文を発表した年だ。

「川上善兵衛伝」にはこんなくだりもある。

『鳥井信治郎と出会ってからの善兵衛には研究以外は頭になかった。経済的な心配がなくなった善兵衛は自分が人工交配でつくりあげた品種の苗木を、実験苗とか見本とかいう名目で学者や葡萄研究家や各県の果樹、園芸試験場に贈ったり、与えたりした。実験で使ってもらい、品種のよさを実証してもらってから売ろうということから善意で渡したのだが、それが苗木屋の手に渡り、どんどん増殖されて、勝手に売られて儲けられてしまったりもした』。

こういうわけで、マスカット・ベーリーAは東北から九州まで全国津々浦々で栽培されるようになった。平成28年度国税庁資料「ワイン原料用国産生ぶどうの受入数量」でマスカット・ベーリーAは3,152tで14.2%を占めている。これは16.1%の甲州につづいて2番目であり赤ワイン用としては最も多い。

「ブドウ栽培に最も困難な土地で研究したからこそ、マスカット・ベーリーAが全国に広まったのでしょう」と、棚橋氏は言う。

ページ:

1

2

関連記事

ページ上部へ戻る