シャトー・メルシャン、桔梗ヶ原ワイナリーを再建

「30年ぶりの里帰り、ありがとう」と、新しい醸造所の内覧会で小口利幸・塩尻市長があいさつした。時の経つのは早いもので、もう30年が過ぎてしまったらしい。

 

初めて塩尻の桔梗ヶ原を訪ねた時、メルシャンはまだ三楽株式会社を名乗っていて、事務所棟の看板は、さらにその前身の「三楽オーシャン」と書かれたままだった。事務所棟の奥に半地下の樽育成庫があって、そこには年代物の大樽が並んでいた。案内してくれた浅井昭吾さんが、「これは塩尻が甘味ブドウ酒の製造拠点だったころの名残です」と、説明してくれた。

 

1975年、浅井さんはこの桔梗ヶ原で重大な決断を迫られていた。甘味ブドウ酒の消費減退で桔梗ヶ原のコンコードとナイアガラ栽培が危機に瀕していたのである。浅井さんは大黒葡萄生産出荷組合のメンバーを前にして、

「これからはテーブルワインの時代です。それには醸造用品種が必要です。林農園さんがさまざまな品種の実験栽培をした結果、桔梗ヶ原にはメルローが最も適していると言っています。みなさんの畑もメルローに改植してください。メルロー栽培の目途が立つまでは私たちがコンコードを買い支えますから」と、訴えたという。

 

その時のメルローが、桔梗ヶ原の厳しい冬の寒さを克服して育ち、1989年に国際ワインコンクールで大金賞をとった。1985年産のメルローで造ったワインだった。それから数年たって桔梗ヶ原を訪ねると、かつての事務所棟は解体されて垣根式のメルローの畑に変わり、半地下の育成庫には大樽の横にオークの小樽が並んでいた。その後しばらくして樽庫も閉じたらしいが、その経緯は全く知らなかった。

 

最近になってシャトー・メルシャンの安蔵光弘さんから、桔梗ヶ原とメルローの相性についての興味深い話を聞いた。

「特定の地域のテロワールに合った品種を選ぶとき、諸条件を総合するとこの品種が最も適しているはずだという仮説を立てることはもちろん必要ですが、結局のところ試行錯誤にならざるを得ません。しかもこの試行錯誤は5年、10年のスパンで結果を出さなくてはなりません。50年後、100年後に分かったのでは遅いのです。新しい産地を開拓するときには必ずそういうフェーズがあると思います。実際のところメルシャンは桔梗ヶ原でいろんな品種を試したわけではありません。けれどいま思うと、浅井さんが40年以上も前に選んだメルローが桔梗ヶ原にぴったり合っていたんです。もちろん、それは事前に林幹雄さんからいただいたアドバイスが良かったのだと思います。それにしてもこの仮説とその結果の一致には驚かされます」。

いまではすっかり“日本産メルローの里”という印象の強い桔梗ヶ原だが、その始まりには不確定要素の大きかったことが安蔵さんの言葉から伺い知れる。

 

ともかくシャトー・メルシャンは、この地に再び醸造所を構え、桔梗ヶ原のブドウを醸してワインを造ることにした。ここではシャトー・メルシャンのアイコン・シリーズ「桔梗ヶ原メルロー シグナチャー」、テロワール・シリーズ「桔梗ヶ原メルロー」、そしてワイナリー限定発売の「桔梗ヶ原メルロー ロゼ」を造るという。

 

新ワイナリーは、もとの建屋が半地下という構造上の利点を生かしたグラヴィティ・フローになっている。醸造設備は小型のステンレス発酵タンクが新たに導入され、育成用のオークの小樽、そしてガレージ・ワイナリーには珍しい瓶詰設備がある。赤ワインに特化したワイナリーなので樽庫は1年目と2年目の育成期間ごとに二つに分けられている。ワイナリーの前には初めてメルローの垣根栽培を試した「箱庭ヴィンヤード」がある。この畑は桔梗ヶ原の栽培を考える上でとても重要な実験栽培区画でもある。

 

(中略)

 

浅井さんの『比較ワイン文化考』のあとがきに次のような記述がある。

「昭和三十年秋、一介の酒造職人として信州桔梗ヶ原で初めて酒母をたてた日、機械を使わず素足で踏みつぶしたブドウの、足裏をぬるりと滑るひんやりした感覚は、いまも消えない。その頃、私の眼中にはただ日本の甘味葡萄酒があるだけであった。これを両洋の風土に位置づけたワインとして対比することも、また、日本人の飲む他の酒類と比較しつつ、日本でワインを醸造する意味について考えることも、まだ混沌のうちにあった。」

この時から63年、ワイン産地・桔梗ヶ原は確かな名声を得て、いま新たな高みへとのぼり始めた。

 

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