「麻井宇介のワイン余話」 余話。その4(最終章) 日本のワインづくり 〜変遷と未来像〜 ④⑤⑥

余話。その4

日本のワインづくり 〜変遷と未来像〜④

先ほど、川上善兵衛は交配育種に着手する前に約500種の外来品種について栽培試験を行ったと申しました。彼はこの仕事に30年という気の遠くなるような歳月をかけています。

着手したのは明治24年4月、このとき9品種127株を栽植したと「岩の原葡萄園の沿革」(『葡萄提要』301頁)にあります。翌年はさらに40余種が加わり、26年7月にはアメリカから取り寄せた20種が到着します。このブドウは東海岸のフレドニアという町からイギリス経由、インド洋まわりで送られてきたんだそうです。

では、その他のブドウの由来は?ということになりますが、川上善兵衛は畢生(ひっせい)の大作『葡萄全書』の中に書き遺しているんですね。それによりますと、小沢善平の撰種園から譲与されたものヨーロッパ系ブドウ42品種、アメリカ系ブドウ12品種、その他、ヨーロッパ系7種、砧木(台木)用7種(これはアメリカの野生ブドウですね)、それと新潟県下に広く栽培されていて自宅にもあったという甲州種、以上合計70品種を日本国内で入手、以後、欧米から400種以上を蒐集したんです。となると、川上以前に日本へ入ってきた欧米のブドウにはどんな由来が秘められているのか、そして「岩の原葡萄園」に外来ブドウの殆どすべてが集結し、なぜ川上はそれらを全否定し交配育種へ没入していったのか、この二つの疑問、誰だって感じるんじゃないでしょうか。

まず前段の川上以前の事蹟、これを語り始めるときりがないので要点だけ申します。川上善兵衛は小沢善平の名を挙げていますが、彼は明治10年代に欧米の種苗を導入して農業の西欧化をはかろうとした先駆者の一人で、明治5年頃、カリフォルニアのナパでブドウ栽培・ワイン醸造を学んだ経歴の持ち主です。

しかし、明治初期、ワインをつくるためにブドウ農業を振興させようとした大きな力が別にありました。大久保利通の殖産興業政策がそれです。信じられないかもしれませんが、政府は本気で日本国中にワイン用のブドウ畑をつくろうとした時期があるんです。

それでフランスやカリフォルニアからブドウを集めます。食べるブドウとワインにするブドウは違うものだという認識、これは『農業全書』(1697)に 「葡萄酒を造る事は、尋常葡萄にてはならぬ物なりとしるせり」と記述があるところからみても、かなり古くから言われていたことなんでしょう。明治になって岩倉具視一行が先進諸国の視察に出かけます。

1年9か月余の大旅行です。その見聞と考察の集大成である『特命全権大使米欧回覧実記』を読みますと、「葡萄ノ重ナル利益モ酒造ニアリ、酒造ノ葡萄ト、乾葡萄ヲ製スルト、生果トハ種ヲ異ニス」と明記しています。江戸時代からの思想を継承しているのか、外遊によって得た知識なのか、それははっきりしません。しかし、なぜ品種の蒐集に熱心に取り組んだのか、動機はこれではっきりします。

 

 

余話。その4

日本のワインづくり 〜変遷と未来像〜⑤

ここでつけ加えておかなければいけないのは、ブドウ栽培のその先にあるワインを、殖産興業政策がなぜ目標としたのかということです。維新政府が考える近代国家建設のシナリオが工業化社会へ至る最初のステップを農産物加工工業の育成をおいてほかにないとみていた時期が あったからです。日本人は清酒をやめてワインを飲めばよいという暴論がその裏側にあったんでしょう。当時は飢餓がたびたびありましたし、もし余剰の米があれば、それで外貨が稼げたのです。

というわけで、明治10年に「三田育種場」が開設され、ここへ欧米の果樹・穀菜が集められます。その主体は醸造用ブドウです。どんな品種があったかは、 明治17年に出版された『舶来果樹要覧』によって知ることができます。それによると中国産2種を含み、ちょうど100種です。これらの苗木が日本全国へ配布されて、醸造用ブドウの栽培が国策として展開されたんですから、なんともすごい話です。

明治13年には国営ワイナリー建設が始まります。自園30ha、ブランデー蒸留場も併設されました。これが官営「播州葡萄園」です。民間にも「盛田葡萄園」など大規模な事業が着手されて、ワイン国産化の機運は澎湃(ほうはい)として全国に高まっていくかに見えました。そして、それらは幻のように消えたのです。

フィロキセラでした。原種圃場の三田育種場が、アメリカから導入した苗木によって汚染されたため、全国へ一気に広まってしまいました。期待を担っていた播州葡萄園も壊滅して、ついに再興することはありませんでした。この時期、殖産興業政策の流れも、西欧の機械制大工業を直接導入して近代化を急ぐ方向へ転換していたのです。

川上善兵衛が蒐集した国内の欧米品種は、フィロキセラとそれに続いて蔓延したうどん粉病から、からくも生き残っていたブドウだったんですね。これは欧州ブドウの栽培が容易でないのを承知の上で、しかもなお、それに取り組む強い動機があったからでしょう。

彼はワインづくりに夢をかけたのではないと思います。ワインは夢の結果であり、彼が夢みたのは、雪深い越後の零細農民の暮らしをゆたかにするため、水田耕作に加えて新たな農業収入の道を開くことでした。これは若くして在方の大地主の家長となった川上善兵衛の自意識に根ざした理想であり、彼は生涯をかけてその道を歩み続けたのです。目指したのは水田と果樹の複合経営。そして着目した果樹がブドウでありました。ですから川上善兵衛が導入したブドウ品種には生食用も数多くあります。交配育種も醸造用だけをねらっていたわけではありません。

しかし、岩の原葡萄園の沿革をたどりますと、農園の開設とほとんど並行して醸造場や地下蔵がつくられていき、彼自身はワイン醸造のためのブドウ栽培に力を注ごうと最初から決心しているのがわかります。

そこでもう一度問い直さなければならないのが、川上善兵衛において、ブドウ栽培とワイン醸造は一体のものでありながら、どこに力点がおかれていたのかというところなんです。

 

 

余話。その4

日本のワインづくり 〜変遷と未来像〜⑥

これは蒐集した500品種を全否定し、つまり30年間の仕事を無為にして交配育種へ転進し、その結果「マスカット・ベーリーA」が生まれてくる事情を読み解く鍵なんですね。ここに日本の近代ワイン史の山場があったと私は見ています。

なぜなら、「マスカット・ベーリーA」は、日本の自然環境ではヨーロッパの銘醸ワインに匹敵する逸品をつくるのは不可能だという「宿命的風土論」を肯定するものとして、昭和時代、日本のつくり手たちの前に立ちはだかったブドウだからです。われわれにつくれる良い赤ワインは、せいぜいこの程度のものだと諦念をもって教え込まれ、だからこそワインづくりの進歩はさらなる交配育種の努力にかかっている、そう信じた時代がずっと続いていたんです。

川上善兵衛の育種家としての偉大さが「宿命的風土論」に権威をつけてしまったとしか言いようがありません。が、実際はどうだったのか。前にも申したように、川上善兵衛のブドウ栽培に対する姿勢は郷土愛と地域共同体のリーダーとしての強い自覚によって支えられています。ブドウ品種の評価にもそれは強く反映します。彼の価値観は新潟県中頚城郡高士村におけるその時代の農業経営に視点をおくもので、そのことは彼の著作のなかで繰り返し述べてはいるのですが、結論だけが日本におけるブドウ栽培の一般論となって広まってしまいます。

では500品種を否定した根拠を彼の言葉によって確認しましょう。

「借問す。品質の優秀なるもの、産額の多量なるものにして発育の旺盛なるもの、樹勢の健康なるもの有りやと。予は謂はん、無しと。而して亦更に問はん。発育の旺盛なるもの、樹勢の健康なるものにして優秀なる品種ありや、豊産なる品種ありやと。誰か有りと答へんや。予は40余年来500余の品種を経紀したれども一も此の問に該当するものを見ず」(『葡萄全書』上篇604頁)

ワイン余話 その1、その2、その3は、こちらからご覧いただけます。

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