「麻井宇介のワイン余話」 余話。その4(最終章) 日本のワインづくり 〜変遷と未来像〜 ⑬⑭

余話。その4

日本のワインづくり 〜変遷と未来像〜⑬

もう少し栽培の話を続けます。

ヨーロッパ系ブドウは日本の気象条件ではうまく栽培できないという言説がどのようにして権威づけられていったか。まずその発端は、日本の園芸学の開祖であり、しかもワイン用ブドウについて偉大な先達であった福羽逸人にあることははっきりしました。次はその祖述者です。

日本の果樹農業は明治前期の泰西農法導入の一環として始まるわけですが、以来、その指導機関の中枢となったのは、静岡県興津にあった農商務省園芸試験場です。ここの場長を務めた恩田鉄弥は実学派の重鎮で、ブドウの一大産地であった弘前を、フィロキセラ禍のあとリンゴで復興させたことで知られる人物です。その人が福羽の説を敷衍するんですね。この時にはもう対象となるブドウは生食用でワインという目的は消えてしまっています。

「我国は雨が多いので、遺憾ながら立派な葡萄を栽培することはできない」

著書にもはっきりそう書いているんです。立派なブドウというのはヨーロッパ系品種のことです。

 

恩田鉄弥はもうひとつ聞き逃せない発言をしています。『通俗園芸講話』という本から引用してみましょう。

「葡萄の整枝法は沢山ある。欧米に於て殆ど皆垣造り仕立で、此の垣造りの中に沢山異なった整枝法がある。我国に於て、今日迄各種の垣造り仕立を行ふた成績によって考ふるに、気候の関係で此の仕立は病害が多くどうも思はしくない。殊に、生食用を主として居るので、収量が少ないときは糖分の多少に拘はらず利益が少ない。垣造り仕立に結実した果実は、棚造り仕立のものより糖分は多い。けれども収量に於て可なり差が多い。現時の市場に於ては糖分に差があっても其の価格に左程の差がつかないから、どうしても垣造り仕立は実際問題として不利益である」

わが国のブドウ栽培で恩田が垣根仕立てより棚仕立てを推奨する理由が、収量の多寡つまり収益性にあるのか、病害つまり栽培管理の難易にあるのか、論旨が明瞭ではありませんが、この二つの指摘はブドウ栽培の現場へ、きわめて短絡的に「垣根造りの栽培は日本ではうまくいかない」というドグマとなって浸透しました。

恩田は生食用ブドウの栽培を前提として語っています。垣根仕立てで糖度が高くなっても生食市場ではそれが価格に反映されない。ならば収量の多い棚造りを採用すべきだと言っているのです。

ところがワイン用ブドウについて論じるときは、ここが決定的に違ってきます。ワイン用として栽培するからには、良いワインとなるブドウでなければ意味がありません。それには福羽が指摘したようにVitis viniferaで、しかも評価の高い品種を選ぶのは当然なんです。そして、そのブドウを密植することが肝心です。密植というのは単位面積当たりの栽植本数が多いことを言います。1haに5,000本から10,000本のブドウを植えています。そうすると必然的に1本のブドウが枝を伸ばせる空間は小さくなりますね。ここがポイントなんです。1本の木にたくさんのブドウがなるより、密植したブドウの果実は成分が充実して果実味の豊かなワインとなります。これを別の言葉で表現しますと収量制限です。

しかし充分に密植した畑で剪定をきちんとやれば、自動的に収量制限していることになるんです。まばらに植えて、これを疎植といいますが、枝をうんと広げた大木にしてしまうと、いくら剪定が上手に行われていても1本の木の着果数は格段に多くなります。棚造りの場合、1ha当たりの栽植本数は甲州種で50本から100本程度です。密植に比べ房数は100倍を超えます。だから収量制限しなければならないんです。

密植をした場合のブドウ畑の姿、それが垣根仕立てであったり、あるいはゴブレと呼ぶ株仕立てなのです。そして疎植した場合の代表的な畑の姿が棚造りです。垣根であること、または棚であること、その本質的な違いは、密植か疎植かという点にあるのです。

ですからワイン用にブドウを栽培するのなら、密植をいかにして成功させるかが課題なんです。垣根式栽培法は日本の風土にあわない、などと言っている人は問題の本質が見えていないんです。

これ、恩田鉄弥はワイン用のブドウのことは考えないと明言しているので、垣根造りを否定しても責めるわけにはいきません。にもかかわらず、彼の発言は一般論として、「日本には垣根造りは不適である」という定説を生む発端となり、ワイン用ブドウの栽培技術が進歩していくのを大きく阻害したといってよいと思います。

 

 

余話。その4

日本のワインづくり 〜変遷と未来像〜⑭

この辺の事情はこれまで誰も語っていないんじゃないでしょうか。これからの日本のワインづくりを、日本の風土でブドウづくりから本気で取り組んでいくためには、いままでワインのつくり手たちの心の中にあった諦念のようなもの、「日本では醸造用の良いブドウはつくれない」、を打ち破らなければならないんです。歴史を知るというのはそのために大切なんですね。たった100年の間に起きたことがほとんど消えてしまって正確には伝わっていない。それはきっと、この100年のワインづくりが、ブドウ栽培者にとっても醸造家にとっても、そして学者にとっても、みな片手間の仕事だったからだと私にはそう感じられるんです。

こういうと川上善兵衛に申しわけない気がします。でも、その川上の仕事の意味するところを正しく伝える者がいなかったという点を強調したいんです。それでなければ「マスカット・ベーリーA」が日本の風土条件を克服した象徴のようにしてワインづくりの現場へ持ち込まれるはずはありません。

余談のような余談でないような話をもう少し続けます。

福羽や恩田は栽培の専門家ではありますが、ワイン用ブドウについては需要がないということで見切りをつけているんですね。福羽は播州葡萄園の開設から留学するまでのおよそ6年間、ブドウ畑で未知の栽培法の指揮を直接とった人物です。彼は実に綿密に海外の情報を集め、判断し、実践していきます。その驚くべき努力が『葡萄園創立復命書』とそれに続く『農事報告』及び『播州葡萄園年報』『月報』に綴られていて、もしこのまま福羽がワイン醸造家になっていたら、日本のワインづくりにこれほど渾沌とした100年はなくてすんだのではないかと思ってしまうほどの内容なんです。彼は文献を比較考究しながら、播州葡萄園の植栽法を品種によってギヨ仕立てと纏柱法(ステッキシステム、株仕立てに支柱を添えて新梢の先端を支柱に束ねて結びつけ樹型を行燈状にする整枝法)にわけ、ギヨ仕立てでは畝間4尺株間3尺、纏柱仕立てでは畝間5尺株間4尺としています。どちらも馬耕可能な畝間をとり、後者でも1反歩で540株(1ha当たり5,400本)植えられると記述しています。充分な密植です。

これでどんな景観が出来上がったのか興味あるところですが、写真を遣っていないんで残念です。ところがお雇い外国人のH.S.パーマーが明治20年にこのあたり一帯を測量していて、その縮尺2000分の1の原図があったんです。この地図の話を始めると播州葡萄園の顛末について思わぬ展開に入りこんでしまって語り盡きないのですがそれは止めます。とにかく驚いたことには、その地図が示すブドウ園の場所に垣根となったブドウの条列が描かれびっしりと埋められていたんです。2000分の1ですからそこまで手が入れられたんですね。感動しました。

ワイン余話 その1、その2、その3は、こちらからご覧いただけます。

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