「麻井宇介のワイン余話」 余話。その3 伝統産地VS新興産地 〜テロワールは産地の名声を支えられるか〜⑫⑬

「麻井宇介のワイン余話」 余話。その3 伝統産地VS新興産地 〜テロワールは産地の名声を支えられるか〜⑫⑬

 

余話。その3

伝統産地VS新興産地 〜テロワールは産地の名声を支えられるか〜⑫

余談をちょっと入れます。

昭和30年代の終り頃、或る有名なホテルのソムリエさんに私達のつくる赤ワインの批評をしてもらいに行ったことがあります。その人は親切に、わざわざフランスワインを一本、比較のためにあけてくれました。

グラスに注いだ二つのワインを前にして、色のこと、レッグスのこと、香りの立ち具合や口に含んでからの利き方、そして両者の印象の違いなど、実に懇切に語ってくれたのですが、その時、私がびっくりしていまも鮮明に覚えている言葉があります。

二つのグラスをぐるぐるまわして交互に香りをかぎながら、その人はこう云ったのです。

「ほら、こっちは土の香りがするでしょう」

私にはそれがまったく理解できませんでした。しかし、自信にみちて断乎とした指摘に、私は曖昧にうなずくしかなかったのです。そのせいで「土の香り」という言葉は忘れられません。

ずっとあとになってふと気づいたのですが、あの「土の香り」はもしかすると、goût de terroirのことだったのかも知れません。昔のことですから、みんなコツコツと独学で知識をつけていった時代です。利酒の修練をしていて産地の特徴を「この匂い」とつかんだ時、それを「土の香り」とその人は納得したんでしょうね。私もそれがどんな香りだか、わかるような気がしました。

辞書をひくとその言葉は「地酒の味」と書いてあります。なるほどterroirの本義はterre、すなわち「大地」あるいは「地面」なんですね。「地場」の酒に「土の香り」というのは、即物的に解釈されると困りますが、おもむきのある表現だなあと思います。

ところで、日本酒の場合、最近はどこの産地の製品もすっかり洗練されてしまって、地酒とは灘、伏見などの大産地以外の地方でつくられているという以外、どこに地酒の特徴があるのかわからなくなってしまいました。しかし、地酒というのは、本来、ローカルな特色を持った酒のことです。

ローカルな特色というものは、どうして生まれてくるのか。現代ではその地方に特有の伝統的な、どちらかと云えば普通ではない独特の製法(技術)に由来するものが多いと思います。それをフランスのワインでいうとヴァン・ド・パイユなんかが該当します。

しかし、根本はあくまでも、その畑のブドウの地域性なんです。ただし、ここでは同時にもう一つ指摘しておかなければならないことがあるんです。それは、昔のワインがいまよりももっと地域の個性が強かったという話につながるものです。

ワインづくりというのは原理的にきわめて単純ですから、その単純なことしかやっていない昔の醸造でそんなに違いが出るはずはないと考えるのが常識です。実はこれが産地の個性を生むんです。なぜか。微生物学的に粗放であったからです。

粗放であるというのは、ワインづくりが人間の仕事でありながら自然の側にきわめて近いという意味なんです。醸造が技術的にこういう段階にあるとき、goût de terroirはその意味するところと、そのワインを味わっての実感が一致していたに違いありません。

 

 

余話。その3

伝統産地VS新興産地 〜テロワールは産地の名声を支えられるか〜⑬

醸造技術の進歩は、粗放な環境で発酵を行うことを否定しました。その結果、goût de terroirは希薄になっていったのです。産地とは関係なく、品種ごとにそれぞれの果実の持ち味を発揮しはじめたといった方が正確かもしれません。

その成果として、新興産地は伝統産地の銘醸ワインに匹敵するヴァラエタル・ワインを続々と世に送り出すようになりました。いわば新世界の無名の「テロワール」が、伝統産地の偉大な「テロワール」と肩を並べたわけです。

醸造において技術革新が進み、そこにブドウ品種の選択的拡散が重なると、ワインの産地がどこであれ普遍化していきます。これは「テロワール」に由来するワインの個性と、醸造技術に支えられた個性とが、せめぎ合っている状態と見えます。

そして、産地の個性goût de terroirはみえにくくなり、代わってつくり手の意志が酒質に反映するようになったと思われます。しかし、つくり手の力量がワインづくりのすべての面でプライオリティを穫得するというようなことはあり得るのだろうか。いや、表現をかえて、そのようにしてワインをつくってよいのだろうか、という疑念は強く残ります。

terroirという概念に「人」の要素を入れるか否かという意見の対立は、ワインづくりが目覚ましい進歩を遂げつつある現実を前にして、「ワインとはいかなるものか」というつくり手にとってのフィロソフイーが改めて問われているからだと私には思えるのです。

ワインづくりの現実に即していえば、「テロワール」は決して自然そのものではありません。にもかかわらず、「人為」を否定するつくり手がいるのは、ワインのアイデンティティは「人為」を超越したところにあるという信念から発したものと思います。これはいささか了見のせまい見方ではないでしょうか。

なぜなら、「人為」は自然の持ち味を希薄にする方向にばかり作用するのではなく、自然の中に秘められたポテンシャルを引き出す力を持っているからです。

ワイン余話 その1、その2はこちらからご覧いただけます。

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