「麻井宇介のワイン余話」 余話。その2 品種を巡るパラドックス 〜カベルネとシャルドネは究極の品種なのか〜⑬
話がややこしくならないように、表の上の変化を観察するところへ戻りましょう。
目覚ましいのはメルローの躍進です。カベルネ・ソーヴィニヨンを追い越して、俗にノーブル・グレープと呼ばれるブドウの中で、一躍トップに躍り出ました。しかし、これはこの10年間でカベルネからメルローへ流れが変わる特別の事情があったわけではありません。1980年の国別内訳のついたブドウ品種栽培面積表を見てください。フランスはこの時点で、カベルネよりメルローの方が多いのです。一方、世界全体ではカベルネの方が50%ほど畑の面積が広い。品種の拡散が先行しているんです。
何故かと申しますと、ボルドーの赤ワインはメドックの方がサンテミリヨンやポムロールより先に有名になった。そこで、その地域の主力品種だったカベルネ・ソーヴィニヨンが注目されたということなんですね。もともと、ボルドー全域ではメルローの方が多いにもかかわらず、産地として発信する情報量において、メドックは断然他の地域を圧倒していた。それで後発の産地はメルローより先にカベルネを植えたんです。
ところが、異風土への適応性は、いろいろな要素を総合してみると、どうやらメルローの方がすぐれているらしい。1980年頃、苗木の生産ではすでにメルローの注文がカベルネを超えていて、逆転するのはもうわかっていました。
情報が偏ったり歪んだりしたために錯覚した例はまだあります。1980年にはセミヨンが13位にありますが、ソーヴィニヨン・ブランはありません。10 年後、セミヨンは枠外に落ち、ソーヴィニヨン・ブランが浮上しました。セミヨンの名声はソーテルヌによって、あまねく世に知られています。しかし、それは貴腐ワインとなった場合のことです。辛口の白ワインとしては、ボルドーのネゴシアンの間で、つとにソーヴィニヨン・ブランの評価が高かったのですが、世間にはボルドーを代表する品種といえばカベルネとセミヨンという言説が、いまもまだ尾をひいています。
リースリングが20傑から落ちたのは淋しい限りです。本格テーブルワインにあるまじき「やや甘口」と批判され低迷したドイツワインの苦悩が如実に示されていると見るのは思いすぎで、ドイツに見る限りミュラー・トゥルガウからリースリングへの回帰は進んでいるのです。減少はドイツより栽培面積の多かった旧ソビエト連邦及び東欧諸国にあると思われますが、くわしいことはわかりません。
かつて、ボルドーの主力品種の一つだったマルベック(コット)は、1980年の時点で殆ど姿を消し、カオールに名残りをとどめるだけになってしまいましたが、チリやアルゼンチンでは依然として主要な品種であることに変わりはありません。そのコットですが、1980年の面積を維持し続けたとしても、他の有力な品種が台頭する中で、相対的な地位の低下は避けられませんでした。
「麻井宇介のワイン余話」 余話。その2 品種を巡るパラドックス 〜カベルネとシャルドネは究極の品種なのか〜⑭
さて、こうして10年間の品種交替の趨勢を見ると、特定の品種が地球上のどこのブドウ畑でも植えられて、もともとはボルドーとかブルゴーニュとか産地に固有のブドウとしてあったものが普遍化してしまう将来が予想されます。ワインはまさに文明の時代に入りつつあるのを実感します。
すると、次にはこんなことが思い浮かんできます。
その一つは、将来、メドックの銘醸蔵よりもっとすごい赤ワインが、どこかの新興ワイナリーから生まれるかも知れないということです。ペトリュスやル・パンをこえるメルローのワインが出てきても不思議ではないのです。モンラッシェ以上のシャルドネがこれから新植するブドウ畑で収穫される日がくるかも知れません。
なぜなら、これまで銘醸の誉高い畑は、そこがその品種にとって至高のワインを産出する選ばれた場所であると誰も証明してはいないのです。それは神様にだって保証はできません。ボルドーやブルゴーニュの畑の環境が素晴らしいワインをつくる最高の条件だと本気で信じている人は、多分、有能なつくり手にはもういないでしょう。
そうなってきたことと、新世界のワインが面白くなってきたこととは、密接に関係していると私は考えています。
そうすると、やがて食傷するほどにカベルネやシャルドネの銘醸品が、あちこちの産地から輩出してきます。文明化の行きつくところはそれでいいの?という素朴な疑問が湧いてきます。ワインの本質は文化ではなかったか。そう問い直さざるをえません。
ワインづくりに遅れて参入した産地は、カベルネ、メルロー、シャルドネのいずれかでまず国際水準のワインを産み出さないことには、産地として飲み手の認知を得られなくなるでしょう。文明化にはそういう側面があり、このハードルをクリアしないと文化としてのワインには立ち返れないのです。
もう一つ思うことは、文明化が進み、しかもボルドーやブルゴーニュの銘醸ワインをおびやかす逸品がどこにでもあるようになったら、由緒ある産地はなにをもってアイデンティティを主張するのでしょう。近頃、伝統を誇る産地がしきりに「テロワール」に言及するのは、もしかすると、そうした将来の不安を予感しているからかも知れません。
1990年段階の品種盛衰の動向は、スペインやイタリアを代表する品種、テンプラニーリョやサンジョヴェーゼが存在を示し始めたことや、カベルネ、メルロー、シャルドネに次ぐフランス系品種の健在が目立ちます。これらには、先行する文明化品種に対するアンチテーゼも、当然のことながら含まれているのだと私は考えています。
さらに付言するならば、この表の見えない部分で、新興産地にはポスト・カベルネ時代を見越して、産地固有の品種によるワインづくりがすでに始まっているのです。
カリフォルニアはジンファンデル。オーストラリアはシラー。ペンフォールズのグランジ・ハーミテッジを味わえば、この品種はローヌ以上にすごいワインになると感じてしまいます。南アフリカはピノタージュ。アルゼンチンはマルベック。チリはひょっとするとボルドーでは消滅したカルムネールかも知れません。これらヨーロッパの風土では一流となりきれなかった品種が、その潜在するポテンシャルを存分に発現させるテロワールと出会う可能性は大いにありうるのです。メドックというテロワールでスクリーニングした結果、マルベックは脱落しカベルネは残りました。だからといって、カベルネが常にマルベックよりすぐれた品種であるとは決していえません。
カベルネとシャルドネは、ワインの文明化に実に大きな頁献をしています。けれども、ワイン文化がそのようにして止揚されるのだとは、私は思っていません。
この前後の余話のリンク先につきましては「余話の余話」をご覧ください。
これで「その2」はおしまいです。つづき「その3 伝統産地VS新興産地 〜テロワールは産地の名声を支えられるか〜」もお楽しみに。
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