「甲州きいろ香」の産地、甲府・七沢(ななさわ)

2004年2月のボルドー大学デュブルデュー研究室。

シャトー・メルシャンから派遣された小林弘憲は、来る日も来る日も甲州ワインの分析作業に余念がなかった。その年に仕込んだ甲州からソーヴィニヨン・ブランに似た柑橘系のアロマが強く感じられたため、ソーヴィニヨン・ブランの香りの研究で世界最先端を行くボルドー大学デュブルデュー研究室の富永博士に師事し、アロマの解析を行っていた。「日本で待つ皆のことを思うと、アロマの正体がわかるまでは帰れないという気持ちで一杯だった」と小林は当時を述懐する。

 

富永博士との共同研究でそれがチオール化合物(ソーヴィニヨン・ブランの特徴香を担う物質)であることが明らかになった。まさに、甲州ワインの新たな舞台の幕が上がった瞬間だった。そして富永博士の研究を支えた愛鳥「きいろ」の名前をもらった「甲州きいろ香2004年」が誕生した。あれからもう12年が経つ。小林が師事した富永博士は早世し、デュブルデュー教授も今年7月に他界した。小林弘憲はいま、シャトー・メルシャンで13回目の「甲州きいろ香」造りに勤しんでいる。

 

小林弘憲

小林弘憲

小林がボルドーから戻ると、シャトー・メルシャンはすぐに“甲州アロマプロジェクト”をたてた。柑橘系のアロマを最大限に引き出すための栽培と醸造の研究・開発である。その結果、甲州ブドウに含まれる柑橘系のアロマの素となる物質(前駆体)の量は、ブドウの生育期間を通じて変動することが分かった。また、この前駆体はブドウ生育期の比較的早い段階で多く含まれることから、収穫期を通常より早めることにした。さらに、柑橘系のアロマを放つチオール化合物は、その構造上、重金属類と容易に結合して香らなくなる特徴があるため、ブドウに重金属の成分が残らないようにする必要があることもわかった。これを実栽培に移す段になって小林ははたと困った。ブドウの防除剤であるボルドー液(硫酸銅と石灰の混合液で重金属の銅イオンが殺菌効果を示す)が使えないからだ。ボルドー液は様々な病気から葉や実を守る。つまり、ブドウの樹全体を守ってくれるスグレものだ。ビオディナミ農法だってボルドー液の使用を認めている。ボルドー液を使わないという選択は、一年の収穫物がダメになるだけでなく、ブドウ樹そのものが弱くなるリスクを負うことを意味する。

 

そんな時、甲府市七沢町の8軒の栽培農家が“甲州アロマプロジェクト”の取り組みに賛同し、ボルドー液不使用に応じてくれた。甲府盆地の中央部、最も標高の低いところに七沢町がある。かれらには当時からよい甲州を作ろうという文化があった。2004年の収穫はそれでうまくいった。ところが2005年は雨が多く、ブドウはベト病に罹り、葉が落ち、樹が傷んだ。このままでは危ないと判断した小林は、最低限度量のボルドー液を使ってもらうことにした。ただし使うのは梅雨の時期まで。それなら収穫期には大方の銅イオンはブドウの房には無くなっているだろうから。

もう一つ大事なことは収穫から醸造までを可及的速やかに済ますこと。それがデリケートな香りの要素をきちんと保つ秘訣だ。それで七沢の甲州は早朝に摘むことにした。しかもメルシャンのスタッフが10kgの収穫箱をもって七沢へ収穫に出向いた。一般に山梨のブドウ収穫は、農家の収穫したブドウをいったん農協に集荷し、農協からワイナリーへと運ぶ。これでは時間がかかってしまう。農協を経由するのは収穫量を示した書類だけ、ブドウは収穫後すぐにワイナリーへ運び込むことにした。

 

甲州の果汁の色は黄色みを帯びているが、七沢の果汁は青々としている。そして醸造は果汁が酸化しないようにドライアイスを果汁の表面に噴霧し、また、苦味を出さないようにフリーランジュースだけを使っている。13ヴィンテージの経験で、栽培法から収穫のタイミング、さらには醸造法まで一連のルーティンが確立した。

できあがった「甲州きいろ香」は、農家に持っていきワインをみてもらう。香りのよさを分かってもらう。毎年、トライ&エラーを繰り返しながら、栽培家と醸造家が一つのゴールに向かって思いを共有することが大事だと小林は考えているからだ。(K.B.)

画像:柑橘系アロマ発見のきっかけとなった上野園の甲州

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