「麻井宇介のワイン余話」余話。その1 ワインづくりの技術を獲得するまで⑤ ⑥ & ⑦

余話。その1 ワインづくりが技術を獲得するまで⑤ 

生まれて日の浅い微生物学は、ここに到ってビール醸造をリスクの多い職人の仕事から近代化工業へ脱皮させる原動力となったのでした。しかしこれ以後、ビールが巨大な装置産業へ発展していくのは、また別の要因によることを指摘しておかなければなりません。

それは冷凍機の発明です。下面発酵酵母のすぐれた点は、まず第一に低温で発酵するため、雑菌の汚染による品質の劣化が防げることにありました。このほか、凝集性が良いため清澄なビールが得やすいことや、上面発酵酵母にはつくり出せなかった快い風味のあることも挙げられます。

しかし不都合なこともありました。低温の維持が大変だったのです。そのため、醸造は冬を中心に、およそ一年の半分しかできませんでした。気温が上がりはじめる三月には、夏に飲むビールを大わらわで仕込み、できたビールは地下倉など涼しい場所に囲っておかなければなりません。けれども、そのことによって品質がいっそう向上することを発見しました。これがラガー・ビールの始まりです。

ラガーとは寝床の意味で、冷暗所に貯蔵しておいしくなるまで寝かせておいたビールを、それまでの発酵が終わればすぐ飲んでしまう若ビールと区別して、ラガー・ビールと呼んだのです。当然、次の目標が生まれます。ラガー・ビールを一年中飲みたい。当時は気温が高くなれば上面発酵の若ビールを飲むより仕方ありませんでした。ラガー・ビールはそのための大きな設備を持たなければつくれなかったからです。

いったい、どの位の低温が必要だったのか。主発酵の理想的な温度は5~6℃、発酵中は発熱しますから、醪が冷えるように周囲の温度はもっと低温でなければなりません。主発酵の後に続く貯蔵(これを後発酵と呼んでいます)は0~1℃で品質の安全と若ビールの熟成をはかります。

では、こうした醸造環境を昔はどうやってこしらえたのか。すぐには信じられないかも知れませんが、煉瓦造りの分厚い壁をもった醸造所の中に、氷をいっぱいに詰めこんだのです。中川清兵衛はベルリンに留学して、こういう醸造法を学んだのです。開拓使の官営麦酒醸造所は1876年(明治9年)9月に竣工 しました。中川は1873年3月から1875年5月までティフォリ醸造所で修業して低温発酵の腕を磨いたわけです。開拓使のビールが発売された日がいつか、正確な記録は見つかっていませんが、明治10年6月頃といわれています。その名称は「札幌冷製麦洒」です。醸造所は豊平川が結氷する冬、それを切り出して使用する計画でした。冷製ビールをつくるためには冬を待たねばならなかったのでしょう。冷製ビール、すなわちラガー・ビールのことです。
ついでに申しますと、日本のビール醸造黎明期、先行した民間のビールはいずれも上面発酵のエールでした。手づくりの小規模につくるビールは、上面発酵の方が取り組みやすかったのです。それとあわせて、御一新の頃から日本に最も多く輸入されていたのが、英国バス社製のエールであったことも、それがモデルとなって、多少は影響したかも知れません。
余話。その1 ワインづくりが技術を獲得するまで⑥

それはさておき、ビール醸造の近代化がハンゼン等の頁献によって、微生物学的な技術革新を遂げた1880年代、奇しくも低温発酵の工業化技術もまた画期的な前進をします。リンデの冷凍機の採用がそれです。

カール・フォン・リンデ(1842~1934)はミュンヘン工科大学の学者でした。彼は、液体アンモニアを用いた冷却装置について研究し、1875年、圧縮式アンモニア冷凍機を完成させます。ハンゼンによって選抜された優良な下面酵母による低温発酵は、これで工業的に、通年操業が可能となりました。 1880年代はビール醸造所が冷凍機を続々導入し、大量生産に向かって装置化していく、いわば近代ビール工業の形成期でありました。

ついでながら、ヨーロッパのこうした動向に日本のビール醸造史を添えて見ますと、明治10年代に乱立した小規模の上面発酵ビールの醸造所に対し、明治 20年代は大資本による新会社の設立や設備の更新が行われています。いずれも冷凍機、製氷機の導入による低温発酵のビールの大量生産を目指したものです。

日本のビール産業はここから生長、発展するのですが、それはヨーロッパのビールに技術革新が進行しつつあった、まさにその時代、いち早くその先端の学理と機械装置を導入することによって達成されたのでした。

 

パスツールを先駆者とする酒つくりの科学的解明は、ビールだけを対象としたものではありません。にもかかわらず、ワインづくりには大きな変化が起こりませんでした。腐造対策とか品質改善といった事柄に、ビールほどさし迫った問題意識がワインをつくる人達になかったからです。とにかく、余程のことがなければ、ワインは飲めるものになったのです。それともうひとつ、ワインはもともとブドウづくりの延長線上にあって、醸造だけが独立してあるわけではありません。

良いブドウが実れば、良いワインは約束されたも同然です。これが、「醸造技術」という意識を希薄にします。ビールや日本酒は、つくり手の腕前が、酒質に強く反映し、それが飲み手にもわかります。どうすればよいか、仕事の勘どころもまた掴みやすいところがあって、それを伝承してきました。ブラウマイスターや杜氏は、そういうノウ・ハウを沢山持っている人のことです。

 

余話。その1 ワインづくりが技術を獲得するまで⑦ 

明治の始め、ビールもワインも日本人にはそのつくり方がわかりません。それで勉強にでかけます。中川清兵衛は免状をもらって帰国しました。免状を出したということは、教える事柄が明碓にあって、それを伝達できるということです。中川の場合、体験を通して学んだ部分があるかも知れませんが、それは技術そのものが未熟であれば、やむを得ません。技術というのは、抽象化し、普遍化できるものなのです。ビール醸造については、冷凍機が採用される直前、中川を媒介として曲がりなりにも技術移転ができたとみてよいでしょう。それは10年もたたないうちに、新たな技術移転を再び、必要としたのですが。

一方、ワインはどうであったか。山梨県勝沼からフランスへ留学した二人の青年の場合をみますと、毎日毎日、畑仕事をさせられている。あちらの人にとっては、それがワインづくりの一環なのです。しかし、それは日本人には理解できない。日本酒の酒蔵のことが頭にありますから、ワイン醸造場で働くものとばかり思っていたわけです。それで、ワインの勉強はいつになるのか、畑仕事ばかりしていて大丈夫なのか不安になってしまいます。今でこそ「ブドウ畑からの仕事が一貫していて、はじめて良いワインがつくれる」なんて言いますけれど、こんなことを本気で日本人が言い始めたのは、せいぜいここ 5年ぐらいのことです。

それで秋になり、アッという間に仕込みは終わってしまいました。学ぶというような事柄は何もありません。その印象を彼らはノートにこう書き残しています。

「葡萄酒製造ノ義ハモットモ易シ。タダ葡萄ヲ潰シ桶二入レ置キ、沸騰後ニ至リ暖気サメタルトキ絞レバ、則チ酒トナルナリ」

わざわざ留学して、持ち帰るべき技法上の知識はほとんど見出せませんでした。中川清兵衛と比べて、大変な違いです。

 

この違いはどこにあったのか。それは、パスツールの時代、微生物についての知識や応用の仕方を獲得し、また機械化が進んで、酒づくりが文明化に向かってまさに動き出そうとしていた、そのことと深く関係しているのだと思います。

技術史的にみると、明治前期、日本が洋酒醸造技術を導入しようとしたとき、ビールは先進国において、パスツール以後のステージにあり、ワインは先進国といえども、パスツール以前のステージにあったのです。

パスツール以前、以後、という節目は、酒つくりに、文化と文明のふたすじの道を分けるものと位置づけられます。文明という文脈の上にのったビールは、後発の日本に先端技術をいち早く導入することを可能としました。 一方、文化という文脈の上にあり続けるワインは、その文化が内包する技術を理解し、これをあるがままに受容するのは至難でありました。

日本で同時期に国産化の始まったビールとワインが、ビールは成功し、ワインはうまくいかなかった、その理由がここにあります。このほかに、飲み手の嗜好など、市場形成に係る問題もありますが、醸造技術の移転が成功したビールと、技術そのものが曖昧なままその後100年を停滞したワインの違いは、これまでに述べたようなところから生じたと考えています。
文明が移植するのは容易ですが、文化を移転するというのは大変なことです。

余話の余話もご参考に(この前後の余話のリンク先もわかります)

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