「麻井宇介のワイン余話」 余話。その4(最終章) 日本のワインづくり 〜変遷と未来像〜 (最終節)

余話。その4

日本のワインづくり 〜変遷と未来像〜 (最終節)

日本のワインづくりはいつから始まったか。諸説ありますが、文献上きちんとおさえられるのは明治7年(1874)です。明治3、4年頃に甲府の人、山田宥教(ありのり)と詫間憲久が始めたと書いてある本がありますが、山田と詫間が共同してワイン醸造に取り組んだのは、その様子を伝える『甲府新聞』の記事から、明治7年秋であることがはっきりしています。

その次に古い事蹟は、青森県弘前の藤田半左衛門。明治8年です。国家の事業としては明治9年、北海道開拓使が山ブドウを原料として試験醸造したのが最初で、この時は2石(6,300ℓ)がつくられました。

日本のワインの歴史は、このあと様々な曲折を経て、120年をこえる歳月を重ねました。人間でいえば4世代目から第5世代に入ったところでしょうか。なぜこんなことをいうのかと申しますと、私には、これがとても大事な意味を持っていると思われるからなんです。

ワインの歴史には二つの側面があります。生産と消費、「つくる」ことと「飲む」ことです。これがうまく噛み合っていないと歴史は進歩しません。「飲む」という側面から見た日本の歴史は、この120年、殆ど停滞していました。日本の「飲む文化」がワインになじむには、4世代もの時間をかけて受容しなければならないほど、私達にとってワインは異質のものだったんですね。

一方、「つくる」ことは、テーブルワインの需要が皆無といってよい情況の中でも続いていたんです。その用途は二つありました。一つは明治20年代から発展した甘味ブドウ酒の原料として、もう一つはブドウを栽培する農家の自家用酒としてです。フィロキセラにブドウ畑がやられてしまった後、日本のブドウ農業はアメリカ系のブドウで復活していくんですが、それはもうワイン用としてではなく、生食用なんです。山形、大阪、岡山が大産地になったのは、そこにデラウエアやキャンベル・アーリーを育てる人が残っていたからで、彼らは殖産興業政策の落とし子と言ってよいでしょう。

甘味ブドウ酒には、スペインやイタリアから樽で輸入した赤ワインが最初は使われていたんですが、次第に国産ワインに切り替わっていきます。そのことが、長野や山形のコンコードとナイアガラの栽培を促したんです。

こういう舞台裏の仕事が、ワインを「つくる」ための設備や方法を、私たちの世代まで途切れることなく伝える役目を果たしてくれました。それがどんなに素朴な技術であったとしても、100年近い間、断絶することがなかったその意義はとても大きいと私は思っています。

私が洋酒業界の一員となったのは昭和28年です。当時のワインづくりは、テーブルワインのことなど、まったく眼中にありませんでした。甘味ブドウ酒はまだ隆盛で、とにかくたくさん仕込むことだけに追われていました。ブドウを集められるだけ集める。その上、農家の納屋のようなところで醸造しているワインまで桶買いしました。

ブドウ農家は生食用にブドウを栽培していたのですが、そのブドウを潰せばワインが簡単につくれることを知っていました。ですから、晩酌に清酒やビールを買って飲むほど経済的にゆとりのなかった時代、出荷するブドウのごく一部を自家用に醸造するのは、しごくあたりまえのことでした。ところが、山梨県の場合、それではブドウ農家があまりにも多くて税務署の検査、監督の手が間に合いません。それで共同醸造免許という制度が生まれたんです。昭和12年、果実酒製造免許場は全国で12,481場、大部分が自家用醸造の免許です。現在、実際に活動しているワイン醸造場は、正確にはなかなか掴めないのですが、おそらく250場前後でしょう。

かつて、1万人を超える人たちが、自分のつくるブドウで自分が飲むワインを仕込んでいた。しかもそれは、免許を取得する以前の密造時代から昭和20年代まで、半世紀近く続いていたことなんです。でも、これは日本にワイン文化が芽をふく温床とはなりませんでした。なぜか。日本人の暮らしが豊かになっていく昭和30年代、誰でもビールや清酒が飲めるようになると、ワインは消えていったのです。文化を支えるのは誇りなんです。それがないものは、いずれ他のものと置き換えられていくんですね。ただそれが甘味ブドウ酒の基酒として利用されている間は、命脈をつないでいました。

入社から数年間、私が秋の仕込みで体験した活況は、甘味ブドウ酒にまだ余勢があったからにすぎません。共同醸造場には、本来、自家用として消費されるべき「生(き)葡萄酒」が滞貨して、甘味ブドウ酒の原料用に桶売りの機会を待っていました。思えば、その頃、日本のワインづくりは曲がり角にさしかかっていたのです。私は、それに気がつきませんでした。

 

甘味ブドウ酒の退潮がはっきりと見えてきたのは昭和40年代の後半からです。入れ替わるようにワインの人気が湧き起こりました。この頃、主産地山梨県の原料ブドウは生食用の甲州、デラウエアに依存していて、いわゆる醸造用専用品種はきわめて微々たるものでした。しかもそれは衰退の傾向にあったのです。

県特産課の調べによりますと、昭和41年度のブドウ栽培面積は全体で3,668ha、そのうち専用品種と称するものは僅か45ha、収穫量は490トンでしたが、昭和51年度にはこれが27ha、330トンに後退するだろうと予測しているのです。実際、昭和45年度の調査では34.74haと減少しています。

しかも問題はこの品種の内訳です。ヨーロッパ系品種は、

セミヨン         8.0ha 133トン

カベルネ・フラン     1.8ha 35トン

メルロー         1.7ha 36トン

カベルネ・ソーヴィニヨン 1.0ha 14トン

合計           12.5ha 218トン

残りの22.24haに植えられていたのは次の5品種です。ローズショーター、ベーリー・アリカントA、レッド・ミルレンニウム、ブラック・クイーン、ミルズ。

このうち、ミルズを除く4品種は川上善兵衛が交配育種したものです。マスカット・ベーリーAは生食用に出荷される数量の方が多いため、醸造専用品種という扱いになっていません。川上善兵衛が目指していたところへ一番近く到達したのがこの品種であった、ということでしょうか。

ミルズはアメリカ系の交配品種で、特有のかなり強い香りのワインとなり、一時期、着目する人たちがいたのですが、テーブルワインとして支持される品質にはなれませんでした。

ともあれ、世にいう第一次ワインブームが起きた時点で、テーブルワインにふさわしい原料ブドウは、栽培面では全くといってよいほど準備がされていませんでした。

しかし、曲がりなりにもブームに対応できたのは、需要の大部分が白であったこと。それには生食用ブドウとして生産量の60~70%を出荷していた甲州を転用すればよかったからです。加えて、ブームを支える品質上の主役がフレッシュ・アンド・フルーティーを標榜するドイツワインであったため、ブドウ品種のポテンシャルを問われずにすみました。フレッシュ・アンド・フルーティーはスタイルであって個性ではありません。ですから品種の力よりも発酵技術がものをいうんです。

それで急場を凌いでしまった。すると次に出てくる問題は、需要の増加に原料ブドウの供給が追いつかない。とりあえず、その不足はバルクワインで補充しようということになりますね。最もイージーで、しかも効果的です。その上、バルクワインを使ってみて、当時のつくり手たちは、コストも品質も国産ワインは到底かなわない、そういう思いをいやというほど味わったのです。

それは日本という風土でワインをつくる者の悲哀であり宿命なんだという諦念に近いものでした。無理もありません。バルクで輸入するのはカベルネ・ソーヴィニヨンであり、比較するのはマスカット・ベーリーAなのですから。しかもそのマスカット・ベーリーAは、日本ではカベルネやメルローを栽培するのが困難なため、ヴィニフェラの血の入ったこの程度のものでいくより仕方ないのだ、そう教えられ信じてきたブドウなのです。

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