「麻井宇介のワイン余話」 余話。その4(最終章) 日本のワインづくり 〜変遷と未来像〜 (最終節)

1960年代後半から1970年代初頭にかけてのバルクワイン事情にちょっと触れておきます。その頃、スペイン、ポルトガルはまだEUの外にありました。バルクワインは関税の有利な特恵国に供給先を求めていましたから、東欧諸国、特にブルガリアとユーゴスラビア、そしてスペインでした。品種別では、ユーゴスラビアのセミヨン(と称する甘味とかすかにマスカット香のある白ワイン)と、やや鈍重ながらボディのしっかりしたブルガリアのカベルネに人気が集中していました。

これは買い手の知識の反映なんですね。ワインといえばボルドー、ボルドーの赤はカベルネ・ソーヴィニヨン、白はセミヨン。そう思い込んで、それ以外はあまり知らない。シャルドネなんて名前はまったく話題になりません。この品種がブルゴーニュを離れて頭角を現すのは、カリフォルニアでさえまだ先のことです。これまでお話してきた「余話」の文脈で申しますと、品種の拡散によってワインの文明化が目に見えるかたちで進行し始める直前、日本のワイン産業はいち早くバルクワインを媒介として文明化の恩恵を受けたということになります。

しかし、この恩恵は日本の主要なワイン産地において、醸造用ブドウの栽培に本気で取り組む決心を鈍らせてしまったように思われます。理念より現実に立つ当事者に、成功する見通しの立っていないヨーロッパ系ブドウの栽培を慫慂(しょうよう)することは無理なのです。既存のブドウ畑でさえ衰退すると予測した山梨県庁特産課の判断は正しかったのだと言わざるをえません。

さきに掲載した「醸造用葡萄品種別栽培面積推移」を見てください。この表には産地が明示されていません。しかし、よく見ると初期に植栽された品種は、セイベル、シャルドネ、リースリングが主力であったことがわかります。このブドウは寒冷な地域で良質なワインが期待されるものです。具体的に申しますと、北海道と福島県で積極的に展開された事業がこの数字に示されているのです。

ここで一つ指摘しておかなければならない重要な事柄があります。それはこれらのブドウ畑が既存の産地で生食用から醸造用へ転換したのではなく、新しくワイン用ブドウに夢をかけて始まったということです。言葉を変えて申しますと、人も土地も宿命的風土論に汚染されていないところから、新しい日本のワインづくりが始まったのです。その後の推移を見ますと必ずしも成功とは言えないのですが、それでも、もしもこの時期、こうした大規模な取り組みが行われていなければ、高品質のワインが日本の湿潤な風土からでもつくりだせるという実例を提示できるようにはなっていなかったでありましょう。

 

これまで「余話」というシリーズでワインの現在ある姿を三つの切り口から述べてきました。技術、セパージュ、テロワールがそれです。技術とセパージュはワインの文明化を促す力の核心にある要素です。それらは、ワインに或る種の普遍性を与えます。ところがテロワールは、一見、逆の作用をしているように思われます。なぜなら、テロワールは動かし難く存在するものであり、ワインに固有性を賦与する根源と考えられるからです。

そこで日本のワインづくりはどうか、これまでの経過を考えてみますと、1960年代以降の世界的な技術革新は、日本にとって後発のハンディキャップを一気に挽回する好機でありました。ワインづくりにおける技術の所在が明確であればあるほど、普遍化は速やかに進みます。日本のワイン醸造技術は文明化の恩恵をここ30年、大いに受けてきました。

一方、セパージュについては、系統選抜をした優良苗木が自由に入手できるにもかかわらず、「日本の湿潤な風土ではヨーロッパ系品種の栽培は困難である」というドグマに遮られて、その導入は遅々として進みませんでした。ブドウ栽培について専門的な知識を持てば持つほど、セパージュはテロワールと切り離して考えることができなくなってしまうのです。

しかしワイン史の中で繰り広げられた壮大なセパージュの移動は、同じ風土を求めて伝播したのではありません。ブドウにとってそれは、常に異風土へ根をおろしていくことだったのです。そして、それが行われたのは人間の意志によってなんですね。ブドウが勝手に動いたわけではありません。

その時、昔の人はできるだけたくさんの品種を新しい土地へ持ち込んだに違いありません。ボルドーもブルゴーニュも、歴史的にみればブドウ畑の新開地です。そして、古い記録には現在よりももっと多くの品種が植えられていました。それらを淘汰して今日のノーブル・グレープへ品種が収斂していく過程で、銘醸地は形成されていったのです。

日本もまた、明治前期、欧米から醸造を目的として100品種を導入し、フィロキセラによって潰滅するまでの間に、官営播州葡萄園は兵庫県加古郡印南新村というテロワールにおいて、ボルドー・ルージュとジンファンデルを好適品種として選抜しています。ボルドー・ルージュは成熟期からみてカベルネ・ソーヴィニヨンではありません。メルローなのかカベルネ・フランなのかそれはわかりません。

川上善兵衛もまた、メルローに着目していたことは前回に申しました。けれども、こうした事実は語り伝えられることなく、ヨーロッパ系セパージュと日本のテロワールの不適合という言説だけがどこからともなく現れて、圧倒的な権威を持ったのでした。この背後にはテロワールとセパージュの関係を人為の及ぶところでないとする思想がうかがえます。

 

なぜ人為の及ぶところでないと考えてしまうのか。それはテロワールを特定の場所の自然条件だと思いこんでいるからです。しかし、たとえばロマネ・コンティのワインがなぜかくも素晴らしいのかと問うて、その類稀なるテロワールによると答えたとしますと、ここでいうテロワールはロマネ・コンティの名を冠した特級畑そのものを意味します。それは、この場所にあった自然に人の手が加えられなければ出現しなかったものです。そのブドウ畑にピノ・ノアールというセパージュを選んで植えたのもまた人の手です。

付け加えて申しますと、風土という言葉も自然と解釈されがちですが、そうではありません。すぐれた歴史的民俗学者であった坪井洋文はこう述べています。

 

 九世紀の中ころにかかれたといわれている国の法律の法文解釈の書である『令義解(りょうのぎげ)』の中に、驚くべき一文が出てくる。「假寧令第廿五」がそれで、役人の休假とくに田をつくるための田假を定めているのである。

 このなかで、在京の役人が故郷へ田を作りに帰るのに、五月と八月にそれぞれ十五日の休みを求めているが、それに対して、地方によって種子播きや収穫の時期が違うから、時期に適した時に休假をほしいというのである。それを「其風土宜しきを異にし、種収等しからず、通して便に随い給へ」と記している。『令義解』を書いた惟宗直本(これむねのなおもと)は、風土に注をほどこして、「謂。物を養い功成るを風と曰う。いながらにして萬物生ずるを土と曰う」としている。つまり風土の概念規定をおこない、人間が手を加えずに自然が恵んでくれる萬物が土で、その萬物の中から人間が選んで養い育てたものを風としている(「風土の類型と現代」『自然と文化』1983年春季号)。

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