「麻井宇介のワイン余話」 余話。その4(最終章) 日本のワインづくり 〜変遷と未来像〜 (最終節)

この文章を読んで、私は開墾する前の原野が自然、その自然に働きかけて人間がつくり上げるブドウ畑が風土なのだと悟りました。偉大なワインを生むブドウ畑を恵まれた風土と表現するとき、それは神の恵みによるもの、とそれまでの私は信じて疑わなかったのですが、そうではないんですね。人間が努力した結果として恵まれた風土は生まれたんです。

考えてみれば、ワインの銘醸地は、ライン、モーゼル、ブルゴーニュなどブドウ栽培の北限に近い場所にあります。ボルドーだってブドウ伝播の歴史に立ってみれば辺境です。メドックは干拓工事によって出現する以前、ジロンド川河口の沼沢地でした。これらの産地のテロワールを讃美するのは、偉大なワインが生まれたという事実によってなのですが、それは自然そのものの恩恵というよりは、そのようなテロワールをつくり上げた人間の努力の賜物なんです。

このような言葉の解釈は、ワインをつくる仕事と直接の関係はありません。どうでもよいことかもしれません。しかし、私にとって或る時期、とてもこだわり続けた問題だったのです。というのは、長野県塩尻市の桔梗ヶ原でメルローの栽培に取り組み始めた1976年から7年が経過し、しかも「日本の風土では所詮マスカット・ベーリーAどまり」というドグマの中で、日本のワインづくりの理想はまだ渾沌として先が見えなかったからです。

それより少し前、1980年、私は「宿命的風土論を超えて」という文章を書いています(『比較ワイン文化考』所収)。これは、日本でワインをつくる自分を鼓舞するためのマニフェストだったんだといまになって思うのですが、「ヨーロッパ系ブドウの栽培には不適な湿潤な風土」と烙印を押された日本の風土が、当時、いかに重くのしかかっていたか、その気分が私にはありありと甦ってきます。

 

さて、日本のワインづくりの未来を語らなければなりません。

一気に結論を申してしまえば、それは日本のワインを本気でつくっていこうとするつくり手たちの心の中にあります。

すでに必要な技術はすべて手に入れることができるようになっています。セパージュについても選択は自由にできます。あとは誇るべきテロワールを開拓する意志の問題です。これは日本だけの特殊な課題ではありません。世界各地で伝統産地を凌駕する銘醸ワインが次々に出現していることとすべて同調しているのです。

折も折、フランスの由緒あるワイン産地の成り立ちについて、実に興味深くまた示唆に富む著作が出版されました。コレージュ・ド・フランスで教鞭をとった高名な歴史地理学者ロジェ・ディオンの論文集『風景とブドウ畑』(福田育弘訳、人文書院)がそれです。ここには、名産地が誕生する条件は何かが深い洞察をもって語られています。

私はこの本を紹介することで、これまで述べてきたワインづくりをめぐる「余話」を締めくくりたいと思います。以下の一文は日本経済新聞社の書評欄に執筆したものです。

 

フランスの偉大なワインはいかにして生まれたかを語って、これほど刺激的な内容をもったワイン書は、かつてなかった。

ワインの品質を決定するのは、ブドウ畑の自然条件、人為のおよばない土壌や気候にあるとするのが今日の常識である。統制原産地呼称法(AOC)はブドウ栽培における自然環境優位の思想を反映したものであり、「良いワインは、良いブドウから」というゆるぎない真実は、天恵の自然環境に帰結するかにみえる。

著者ディオンはワイン産地の来歴を考証し、フォロキセラによって壊滅的な打撃を受ける以前、ワインの品質を決定した要因は、大消費地への輸送手段の有無、ブドウ畑の所有者の身分、行政上の地誌といった社会環境にあったことを明らかにしている。当時は自然条件に恵まれていない土地であっても惜しみなく労力を注ぎ込めば、良いワインができるのは自明のことだったのである。

ボルドーの銘醸畑も、ブルゴーニュの特級畑も、自然環境の不利を乗り越えて生まれたものだというディオンの指摘は、現在の格付けを絶対のものと思い込んでいるワイン通には驚きであろう。

ブルゴーニュの著名な畑がコート・ドールに集中しているのは自然的要因よりも旧司教区の範囲がその区画であったこと、なかでも有名なクロ・ヴジョは殆ど平坦なその場所しか入手できる未開墾の土地がなく、そこが高い名声を得たのは、不利な自然条件を克服した修道僧の営為にあったという。

ワインにおける自然と人為のかかわりを、自然の制約とそれにたちむかう人間の意志という構図で読み解いていく洞察の深さは、興趣につきない。その思想と事実は、躍進する新世界のワインを理解する鍵でもある。

旧来のワイン風土論の呪縛から脱しきれない日本のつくり手たちに本書は勇気と希望を与えてくれるであろう。

ワイン余話 その1、その2、その3は、こちらからご覧いただけます。

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