シャトー・メルシャン 桔梗ヶ原メルローの30年(後編)

「シャトー・メルシャン 桔梗ヶ原メルローの30年(前編)」はこちら

しかし、桔梗ヶ原のメルロー栽培は一筋縄ではいかなかった。栽培農家もメルシャンもメルロー栽培の確たるノウハウを持っていたわけではなかったからだ。唯一の救いは林農園の存在で、林農園は1953 年に山形からメルローの穂木を持ってきて植えていた。林農園の実践に基づく活きたアドバイスは、栽培農家につきまとう先行きの不安を和らげただけでなく、行く手を照らす灯台の役割も果たした。

 

1990 年1 月にメルシャン醸造葡萄生産組合の塩原義章組合長(当時)に聞いた。塩原さんは率先垂範の人だった。

「組合員の中にはボルドー液の作り方も知らないでメルロー栽培を始めた人もいました。だから来る日も来る日も不安だらけです。私は自分の逃げ道を断ち切るために自前の畑をすべてメルローに改植しました。メルローのワインを造りたいという一念で死にものぐるいで取り組みました」。

リーダーの熱意にうたれて多くの農家が後に続いた。当時、桔梗ヶ原のメルロー栽培は、湿気や病気とのたたかいよりも、冬の寒さから樹をいかにして守るかのほうが優先課題だったという。メルローの栽培がようやく軌道に乗りかけた矢先の1981 年2 月28 日。信州を大寒波が襲った。諏訪湖で氷点下28℃、桔梗ヶ原も氷点下17℃を記録。メルローの樹の8 割方が寒波で枯死してしまった。

 

それでも彼らはメルローを見捨てなかった。度重なる凍害でたくさんの犠牲を払いながらも、創意と工夫、不屈の闘志で困難を乗り越えた。

「植えてから3 年までの若い樹は、冬の間、土中に埋めました。土の中の方が暖かいからです。4 年目以降は12 月~ 3 月まで樹に藁を二段にして巻き寒さから守ります。藁の厚みはいろいろ試してみた結果、約4cm が適当だという結論に至りました」。

いわば“ 塩原流栽培法” が確立し、それが仲間の畑にも徐々に浸透して効き目を現わし、メルローは桔梗ヶ原の寒い冬を健やかに越せるようになった。

 

そして1989 年。「信州桔梗ヶ原メルロー1985」がリュブリアーナ国際ワインコンクールで大金賞をとった。「この桔梗ヶ原のブドウが世界で評価されたことの喜びは、他のなにものにも代えがたい」と塩原さんが言い、浅井さんがそれに笑顔で頷いた。あの光景は今でもはっきりと脳裏に焼き付いている。ブドウ産地・桔梗ヶ原の素晴らしさは、その感激をワインの造り手のメルシャンと栽培農家が共通の思いで分かち合えたことにあった。たぶん日本で初めての出来事だったと思う。

 

あれから30 年。ほんとうに久しぶりに飲んだ「信州桔梗ヶ原メルロー1985」は、まだまだ新鮮な果実味を保っていて、とても元気だった。やわらかくなったタンニンと酸味のバランスがとれて軽快な味わいだ。なんだか妙に嬉しくなった。

色合いがレンガ色に変わり、土やキノコなどの熟成した香りの強い「信州桔梗ヶ原メルロー1990」に比べると、その若さと力強さが余計に際立ってみえた。

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